祝福論(やまとことばの語源)・「棺(ひつぎ)」2

(承前)
日本列島の古代人にとっての「死」は、きれいに何もかもなくなって終わりになる、ということだった。仏教が入ってくるまでは、あの世に極楽浄土があるなどと思っていなかった。わけのわからない闇だらけの「黄泉の国」が広がっているだけだ、と思っていた。だから、この生はきれいさっぱりと終わらせなければない。人々は、何につけても、きれいさっぱりと終わることのカタルシスを大切にして暮らしていた。それが、やまとことばの文化だった。
氷河期が終わって日本列島が大陸から切り離されたとき、人々は、水平線の向こうにもうひとつの世界があるというイメージを失った。もう、そこから人がやってくることはなかったし、われわれもその向こうに行くことはできない。
あの向こうには「何もない」。「何もない」と思い定めるしかなかった。「何もない」としか思いようがなかった。
あの水平線は、この世界の「終わり」であり、その向こうは「何もない」。
さっぱりと何もかもなくなって終わりになること、そう思えるとき、深いカタルシスがあった。そしてそれが、日本列島における「死」のイメージになっていった。
日本列島の文化とか美意識は、「さっぱりと何もかもなくなって終わりになること」を止揚してゆくことにある。それはもう、どうしようもなくそうなのだ。
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「ひつぎ」ということばの語感には、なんだか妙に厳粛でしめやかな響きがある。
語源辞典によれば、「ひつぎ」ということばは、「ひとき」=「ひつき」=「ひつぎ」と変化してきたらしい。
ひとまずこの説を信用することにする。
そして語源の意味は、「ひとき」すなわち「死んだ人を入れる木の箱」なのだとか。
これは、信用できない。
古代人は、こんな説明的なことばの使い方はしていなかった。
死んだ人を入れる箱であることくらい、わかりきったことである。わざわざそんなわかりきった意味をことばの機能を借りて共有しなければならない理由なんかなんか何もない。そんな意味など、ことば以前にすでに共有しているのだ。ことば以前にすでに共有しているということは、それがことばを生む契機にはならない、ということだ。ことばなどなくても、すでにそんな意味は共有されているのだ。
そのことばによってはじめて共有されてゆくもの、それが、そのことばが生まれてくる契機である。
彼らがそのことばによって共有していったのは、「ひとき=ひつぎ」という音声にこめられた「ことだま」である。
つまり、そこに死者を納めて葬るということの感慨を、ことばとともに共有していったのだ。
やまとことばは、すべてそのような「ことだま=感慨」の表出として生まれてきた。語源を問うことは、「ことだま=感慨」を問うことだ。「ことだま=感慨」を共有してゆく機能として、やまとことばが生まれてきたのだ。
「死んだ人を入れる木の箱」だから「ひとき」といったのではない。
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「ひとき」の「ひと」は、おそらく「人」のことではない。
「ひ・と」という音声を発する感慨があったのだ。
「ひと」だから「人」に決まっているだなんて、古代人は、ことばをそんなふうに限定して使っていなかった。「ひと」という音声に「ことだま=感慨」を感じていただけだから、意味はそこから幾通りにも生まれてくる。
「ひと」という音声には、「ひとつ」「人(ひと)」という意味以前に、「すっかり隠してしまう」とか「すっかり隠れてしまう」というような気配に対する感慨が込められている。
「ひ」は、「ひっそり」の「ひ」、「秘める」の「ひ」。「孤独」のニュアンス。土の下、棺の中に隠すから、まず「ひ」といった。
「と」は、「止める・留める」の「と」。「終わり」の感慨。
「そこに何かが隠されている」「そこで何もかも終わっている」という感慨から、「ひと」という音声がこぼれ出る。
「人(ひと)」の語源は、「この人だけのとくべつな人」「この人しかいない」すなわち「最終的な人」というニュアンスにある。人間一般のことをいっていたのではない。
「ひとつ」もまた、「これひとつ」とか「ひとつだけ」というように、「最終的なかたち」をあらわすことばである。
そして「き」は、ひとつの完結した世界をあらわす。「男ありき」というときの「き」は、「完結」のニュアンスをあらわす接尾語である。
「気・木(き)」は、それ自体でひとつの完結した世界になっているさまをあらわしている。したがって、「ひとき」というときの「き」も、べつに「木」のことを意味していたのではない。
「ひとき=ひつき」の「き」は、あえていうなら「気」のニュアンスほうが近い。
古代人にとって、切り出されて加工された木は、もう「き」とはいわなかった。それは、大地に立ってひとつの世界を構成している存在だから「き」といったのだ。切り出され加工されたら、「丸太」になり「板」になり「箱」になる。語源学者も、そういうやまとことばのタッチをちゃんと考えてくれなければ困る。「ひとき」の「き」が、もし「木」という意味なら、それはきっと「ひとはこ」と呼んだのだ。
「ひとき」とは、「この中ですべてが終わって完結している」という、棺(ひつぎ)に対する感慨(ことだま)を人々が共有していったところから生まれてきたことばである。
「人の死体を納める木の箱だったから」だなんて、そんなわかりきったことを説明するためにこのことばが生まれてきたのではない。
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また、「ひとき」が「ひつき・ひつぎ」に変っていったのは、研究者が説明するような、なんとなくそちらのほうがいいやすかったからとか、そういうことではない。「と」が「つ」になったわけはあるのだ。
最初は、棺に納めて埋葬すれば「これですべては終わった」という感慨が自然に起きてきた。
しかし共同体が発展して、人々のあいだで「死の恐怖」や「霊魂」という意識が肥大化してくれば、そうすっきりと「終わった」というカタルシスを持つことができなくなってくる。
魂が棺から抜け出してこの世に迷っているのではないか、というような不安も起きてくる。だから、どうかそこで終わってくれ、と願う。そういう願いを込めて「つ」という音韻に変わってきた。
「つ」は、「着(つ)く」の「つ」、「達成」「終結」の語義。
最初は、「終わった」と素直に信じることができたから「と」といった。それが、信じることができなくて不安になってきたから、「終わってくれ」という願いを込めて「つ」というようになっていった。
そして「ひとき」が「ひつき」に変っていったということは、「ひとき」の「ひと」は「人」という意味ではなかった、ということを意味する。「人」であったのなら、今でも「ひとき」といっているさ。べつに、「ひとき」といいにくいわけでも、「ひつき」のほうがいいやすいわけでもない。
「ひとき」とは、そこでこの生が終わっている空間のこと。
「ひつき」とは、この生の終わりが達成される空間のこと。
「ひつき」ということばには、「終わってくれ」という願いが込められている。
だから、仏教とともに「石」のひつぎの文化が輸入されたとき、権力者のひつぎはいち早く頑丈な石のものになった。それは、仏教文化の洗礼によって、権力者たちの意識に、死者の魂がそこから抜け出さないでそこで終わってくれ、という願いが切実になってきたからだろう。
庶民は、そこまで心配していなかった。
古墳時代は、権力者のひつぎでも、まだ木の箱だった。それは、石のひつぎの文化を知らなかったこともあろうが、「終わってくれ」と願うほどの不安も希薄だったからだろう。
そしてもしそのころに大陸の騎馬民族とやらが奈良盆地を征服して王朝を打ち立てていたのなら、そのときすでに権力者のひつぎは頑丈な石に変わっているはずである。
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「ひつぎ」の「ぎ」は、鼻濁音だったのだろう。
鼻濁音は、思いを込める発音である。
そこで生が完結してくれ、という願いがより切実になってきて、「ぎ」という鼻濁音に変っていったのだろう。
本格的に「ひつぎ」というようになったのは、中世以降のことらしい。
「つぎ」は、「次(つぎ)」「継(つぎ)」「告(つぎ)」「注(つぎ)」でもある。「接続」の語義。接続して世界を完結させることを「つぎ」という。お棺の中に閉じ込めて(=接続して)世界を完結させる。
古代の日本列島の住民は、「死」は、きれいさっぱりなくなってしまうことだと思っていた。この生がきれいさっぱり終わって完結すること、その想いで「ひつぎ」に死体を納めて埋葬した。
「月(つき)」は、次々にかたちを変えながら完結したかたちになってゆく。完結してゆくことを「つき」という。
「き」とは、完結した世界のこと。
「完結している」と「完結してゆく」、これが、「ひとき」と「ひつき」のニュアンスの違いである。
そうして「ひつき」の「き」が鼻濁音になっていったということは、「ひつぎ」ということばのもっとも深い感慨は「ぎ」という音韻にこめられている、ということを意味する。
世界が完結すること、この生が完結すること、これが、古代の日本列島の住民の「死」という体験だった。
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われわれは、死んだらお棺の中に納められて、きれいさっぱりなくなってしまう。
死者は、すでに存在しない。生き残ったものたちの記憶の中だけに存在している。
われわれは、死者と対話することなんかできない。そしてわれわれもまた、死んだら、生き残ったものたちと対話できる存在になるのではない。
きれいさっぱりなくなってしまうのだ。それは、すてきなことだろう。それがどんなにすてきなことかということを、古代人は深く思い知っていた。
死んだあともこの世に思いを残してこの世を見つめていなければならないと想像することは、死んでゆくものにとっては、気が変になるくらい空恐ろしいことに違いない。
われわれが死について考えるとき、ついそういう想像をしてしまうのは、われわれ自身が「見られている」という心の動きをもっている存在だからである。
われわれが「見られている」と思うことと、死者が「見つめている」ということとは、また別の問題なのだ。死者は、見つめてなどいない。死者は、もう存在しない。
死者と対話する、なんて、死者に対して失礼な態度である。死者は、さっぱりとなくなって、もうどこにもいない。われわれにできるのは、そのかなしみとともに生前のその人を思い出すことだけである。
命は、そうやって引き継がれてゆく。死者と対話しながら引き継がれてゆくのではない。
命は、つながってなどいない。今ここを生きるわれわれの心の中にその人の生前の姿が記憶として残っているだけである。
死者は、すでに存在しない。
墓前に手を合わせることは、その墓石の下に死者が眠っているのを確認するのではなく、その人の生前の姿を思い出す行為である。
墓石の下に、死者は、すでに存在しない。そう思うことが、生き残ったもののたしなみなのだ。そこに死者が存在しないことが、そこに死者をおさめたことの証しなのだ。古代の日本列島の住民は、そういう死生観とともに「ひつぎ」ということばを生み出していった。
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内田樹先生、「死者と対話することこそ人間性の基礎である」などとけちくさいことばかりいわないでいただきたい。死ぬことにおびえきった人間が、みずからの死を正当に受け入れることができない、その貧乏たらしいスケベ根性でそんなことに熱中しているだけの話じゃないか。
ちまたには今、そんなような映画や劇画や小説が次々に生産されているとしても、それは現代人の病理であって、人間の普遍的な死に対する想いではない。
「死者と対話する」ことによって「死の恐怖」が克服されるわけではない。死んでしまってから生き残ったものたちと対話をしなければならないなんて、想像しただけでも恐ろしいことであり、そんな物語を紡ぐことにうつつを抜かしているかぎり、われわれの「死の恐怖」は際限もなく膨らんでゆくばかりである。
がんで死んでいった僕の知りあいが、奥さんに最後に残したことばは、
「ママ、これでもう終わりにしてもいいかな」
というものだった。
そういう地平にたどり着いて、彼ははじめて死んでゆくことができた。
そこにたどり着かなければ、人は死んでゆくことができない。
死んでゆく人に対して、死んでからも生き残ったものたちと対話をしなければならないというような宿題を押し付けるべきではない。そんな宿題を押し付けられたら、怖くて死んでゆくことなんかできない。
生き残るものたちは、死者との対話を断念しなければならない。
死んでゆくものは、きれいさっぱりと「終わり」にしてしまわなければならない。
きれいさっぱりと終わりになっている空間(世界)のことを、「ひつぎ」というのだ。