祝福論(やまとことばの語源)・「棺(ひつぎ)」1

「ひつぎ」とは、死者を安置する棺おけのこと。おそらく、古墳時代からそのようなことばはあったに違いない。
いや、弥生時代にはもう、「棺」をつくって死者を埋葬していたはずだ。そのときに「ひつぎ」といっていたかどうかはわからない。しかし、「ひつぎ」ということばが生まれてくるのはもう時間の問題だった。
なぜ「ひつぎ」というのか。なぜ「ひ」と「つ」と「ぎ=き」なのか。その一音一音にこめられた感慨がある。
「ひつぎ」の語源を問うことは、古代人の死生観に推参することでもある。
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人類の歴史は、いつどこで、なぜ、どのようにして埋葬をはじめたのか。
まず、そこから考えてゆきたい。
ネアンデルタールは、30万年くらい前から、すでに洞窟の土の下に仲間の死体を埋めるということをしていたらしい。
では、彼らはなぜ埋葬をしたのか。
死者の霊を弔うためとか、その霊と対話をするためとか、そういうステレオタイプな解釈は、われわれは信じない。
彼らは、埋葬をはじめる前からすでに「霊魂」という概念を持っていたのか。そんなはずはあるまい。埋葬することによって、「霊魂」という概念が生まれてきたのだ。それは、「結果」であって、「原因」ではない。それが、埋葬をはじめる「契機」になったのではない。
人類学者たちは、そういう過ちを、数限りなく犯している。そういうふうに考えてすむなら楽なものさ。というか、想像力がすぐ行き詰ってしまうから、そんな倒錯的で怠惰な解釈ですませてしまおうとする。
たとえば、そのころのアフリカのホモ・サピエンスのように、死体を置き去りにしながら移動生活をしてゆけば、死体のことなんか、やがて忘れてしまう。死者の生前の姿が記憶として残るだけである。つまり、死体に対する関心は自然に薄れてゆく。
それに対して自分たちの住居である洞窟に死体を埋めていたネアンデルタールは、つねに死体を意識して生活していかなければならない。
そういう日々の中から、死者の「霊魂」というイメージが生まれてきた。
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人間は、先験的に「見られている」という意識を持っている。
直立二足歩行は、胸・腹・性器等に急所を他者(世界)にさらしている姿勢である。そのことの不安から、「見られている」という意識が生まれてきた。そういう不安を持ちながら向き合っているのが、人間存在のかたちである。二本の足で立ち上がることは、他者と向き合う姿勢なのだ。そうして、おたがいのあいだに「空間=隙間」があることを確認しあうことによって、群れの密集状態の閉塞感から解放される。
このようにして、他者との「関係」、すなわち他者とのあいだの「空間=すきま」をやりくりしてゆくのが、二本の足で立ち上がる、という行為だった。そうやって人類の歴史がはじまった。
原初の人類にとって二本の足で立ち上がることは、他者(世界)から「見られている」という意識を不可避的に持たされてしまうことだった。
人間は、「見られている」という意識を先験的に持ってしまっている存在である。
だから、衣装を着るようになっていったのだし、ことばを話すようにもなっていった。
人類の文化は、「見られている」という意識からはじまっている。
「見られている」という強迫観念、ここから「霊魂」という概念が見出されていったのだ。
埋葬の起源を「死者の霊魂をとむらうため」だの「死者と対話するため」だのといっている研究者は、「霊魂の起源」について何も考えていない。そんなことがいいたいのなら、まずそこから語り始めなければフェアじゃない。
死体のそばで暮らしていれば、とうぜん「死者に見られている」と感じる体験はたびたび生まれてくる。
生きているものを見つめる死者の視線を感じたこと、それが「霊魂」の起源であり、人間は「見つめられる」存在なのだ。
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したがって、「霊魂」という概念で埋葬の起源を語ることはできない。それは、「原因」ではなく、「結果」なのだ。
結論から先にいえば、30万年前のネアンデルタールは、死体をそばに置いておきたかったから洞窟の土の下に埋めたのだ。それだけのこと。そして、「死者から見られている」という体験をしなければ、けっして「霊魂」という概念は生まれてこない。
人類は、手品みたいにして「霊魂」という概念を生み出したのではない。
定住生活をしていれば、死体を置き去りにして別の場所に移動してゆくということはできない。
はじめは、谷に捨てるとかというようなことをしていたのかもしれない。死体をほおっておけば腐臭を放ってくるし、それを嗅ぎつけてハイエナや狼などの肉食獣が寄ってくる。
死体からできるだけ遠ざかること、それが群れの安全を守ることであり、死者のことを忘れてしまうすべだった。
仲間の死を悲しむ心は、猿でも象でも持っている。ましてや人間は、嘆き悲しむことを種の本性として持っている。
べつに「霊魂」などというものを発見しなくても、その悲しみをなだめるすべとして埋葬が生まれてくる必然性はある。定住してしまえば、かんたんには死体から遠ざかることができない。それは、悲しみをぬぐう機会を失っているということだ。
とくに悲しいのは、子供の死を体験することである。
氷河期になると、乳幼児の死亡率が高くなってくる。
ネアンデルタールの母親は、生涯に十人以上の子供を産んだという。それでも成人するまで生き延びることのできる個体は3分の1か4分の1ていどで、それでやっと群れの個体数が維持されていた。
次々に子を産むから、母親が何年も子供の面倒を見て育て上げることは不可能である。だから彼らは、群れ全体で子供を育てていた。そのために、ヨーロッパでは母親が子供にかまいきりになるという育て方の伝統がない。
ヨーロッパから中近東・エジプトにかけてのネアンデルタールの血を引く人種(コーカソイド)は、伝統的に多産である。だから、氷河期が空けて乳幼児の死亡率が低くなって爆発的に人口が増え、いち早く国家が生まれ文明が発達していった。
最近でも、ハプスブルグ家などの王国の王女たちは、平気で十人以上の子を産んでいたらしい。
これは、大奥をもうけて側室を置かないとたくさんの子孫をつくれなかったこの国の伝統とはずいぶん違う。
この国では、縄文時代の8千年間にまったく人口が増えなかった。それは、食糧事情が悪かったからではなく、一人の女が生涯に産む子供の人数が極めて少なかったからだ。
母親が子供にあまりかまわないヨーロッパ式子育てと、この国のたくさん手をかける育て方とどちらがいいかという議論がよくされるが、それはもう多産系の人種とそうでなかった人種との何万年もの伝統の違いでもある。
そしてヨーロッパでは母親の影響が少ないから、そのぶんほんらい不自然なものである父子関係が多くかかわってきて、子供のトラウマになったり「父殺し」の観念性を育てたりしている。
この国では縄文以来母親がたくさん手をかけて子供を育て、父親がほとんどそこに介入してゆくことがなかったから、少なくとも「父殺し」の観念性の伝統はない。この国でそれが顕在化してきたのは、家族のかたちがヨーロッパ的一夫一婦制になってきた近代(あるいは戦後)以降のことである。
どちらがいいとは一概にはいえないのだろうが、少なくとも父子関係というのは、あまりたちのいいものではないらしい。
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話を元に戻す。
氷河期のヨーロッパでは、子供は産んだそばから死んでいった。そうなると母親は、神経過敏になり、死んだ子供を抱きかかえて手放そうとしない、という態度になることが多くなってくる。
ヨーロッパ女のヒステリーの伝統は、ここから始まっている。また、彼女らがあまり子供に手をかけようとしないのも、それがいつ死んでしまうかもしれない存在だというおそれの歴史的なトラウマを抱えているからだろう。それに、ほったらかしにしても大丈夫なくらいの生命力を持ってもらわないと大人になるまで生き延びられない、ということもあるのかもしれない。
いつも死なれていたらそのうち平気になってくるだろうとか、母親の悲しみというのは、そういうもんじゃない。体験すればするほど、嘆きは深くなってゆくのだ。
自分が産んだ子供だけではない。仲間の女の産んだ子供だって次々に死んでゆく。おまけに彼らの平均寿命は30数年と、とても短かった。彼らの群れでは、「死」は日常茶飯事のことだった。彼らは、「死」の悲しみに浸されて生きていたのであり、だからこそこの生に対するときめきもより豊かに体験され、男と女は毎日のように抱き合いセックスして暮らしていた。
そういう状況から、人類最初の「埋葬」という文化が生まれてきたのだ。
「霊魂」がどうとかこうとか、そういう問題ではない。
まあ、猿の母親でも死んだ子供をいつまでも抱きかかえて行動しているということがよくあるというのだから、人間の母親の、しかも氷河期のヨーロッパの母親ならなおさらのことだ。
また、熱帯地方なら死体はすぐに腐敗してくるが、氷河期の寒冷地なら、しばらく原型をとどめたままになっている。
そうやって死体をそばに置いて思い切り嘆き悲しんでばかりいたら、母親の体力も衰弱してゆく。氷河期の極地では、2、3日食わなくても大丈夫というわけにはいかない。たちまち凍死してしまうだろう。
だったらもう、住居である洞窟の土の下に埋めて、「まだ一緒にいるんだよ、ずっと一緒にいるんだよ」ということにして、とりあえずあきらめさせるしかない。
おそらく、人類最初の埋葬は、赤ん坊の死体だった。赤ん坊の柔らかい骨が何万年後まで残ることはありえないから、そういう証拠が発見されることもないだろうが、氷河期のネアンデルタール=クロマニヨンの発掘人骨は、子供のものが異様に多いのである。土に溶けてしまったであろう赤ん坊のものも含めたら、ほとんどが子供の骨だ、といってもいいに違いない。
人類は、「霊魂」を発見したから埋葬をはじめたのではない。母親の悲しみがそうさせたのだ。
東大のある研究者は、ネアンデルタールはそれほど知能が発達していなかったから、埋葬するときもそれほどはっきり悲しんだり泣いたりすることもなかっただろう、というようなことをいっている。まったく、あほじゃないかと思う。深く嘆き悲しむということをしなかったら、埋葬という文化は生まれてこなかったのだ。彼らはたぶん、われわれ現代人より、もっと率直に深く嘆き悲しんでいたのだ。
産んだ先から子供が死んでゆくということが、母親にどれほど深い悲しみをもたらすかということは、どこかののうてんきな学者の想像が及ぶレベルではないし、それでも彼女らは生み続けてゆかねばならなかったのである。
だからヨーロッパではレディファーストの習慣が定着したのであり、二万年前のもっとも寒さが厳しかった時代には、「妊婦像」を神として祀るという習俗がヨーロッパ全土を覆って大流行し、埋葬の際の装飾品もいっそう華やかになっていったのである。
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人間は嘆き悲しむ生きものである、ということが埋葬という文化を生んだのだ。
そして、埋葬したことによって、死者から「見られている」存在になった。
そのとき死者は、どこから見ているのか、さっぱりわからない。それでも「見られている」という意識は、ますます強くなってくる。
死者は、見えないどこかの世界にいる。すなわち、そうやって「あの世(他界)」に気づいていった。
彼らは、死者の声を聞いたのではない。死者に「見られている」ことに気づいたのだ。
ヨーロッパでは、死者とともに暮らそうとして、埋葬をはじめた。
だからヨーロッパの寺院では、歴代の高僧のしゃれこうべを保管して飾っていたりする。彼らには、そういうものに対して気味悪いという反応はあまりない。たとえ魂は天国にあっても、肉体は今なおわれわれとともにある、という喜びをそのしゃれこうべが与えてくれる。そして、そのようにして、天国とこの世のつながりを実感してゆく。
しかし日本列島では、死体は、きれいさっぱりなくなってしまわなければならない。しゃれこうべが残っているのは、死に切れないでこの世に恨みや未練を残している証拠である。だから、気味が悪い。たとえそれが残るものであるとしても、それはもう、きれいさっぱりと隠してしまわなければならない。
そのための埋葬であり、火葬にするのも、きれいさっぱり消してしまいたいからである。
ヨーロッパ人は、今なお火葬はしない。それは、死者とともにいたい、というところから彼らの葬送儀礼がはじまっているからだ。
しかし日本列島の古代人にとっての「死」は、きれいに何もかもなくなって終わりになる、ということだった。仏教が入ってくるまでは、あの世に極楽浄土があるなどと思っていなかった。わけのわからない闇だらけの「黄泉の国」が広がっているだけだ、と思っていた。だから、この生はきれいさっぱりと終わらせなければない。人々は、何につけても、きれいさっぱりと終わることのカタルシスを大切にして暮らしていた。それが、やまとことばの文化だった。
「ひつぎ」とは、そういう日本列島的な「死」を表現することばだった。(つづく)