前回の続きをちょっと

前回の記事に対して、こんな反応がありました。そのひとがいうには、僕は科学や学問のことを「ろくなもんじゃない」と思っているのだそうです。そしてそれはひとまず健全な反応であるが、ただし科学や学問が「ろくなもんじゃない」と証明するためにはそのためのそういう科学や学問がまた必要になってくるのだよ、とおっしゃる。
何をえらそうに。
そうじゃないのですよ。その人やレヴィ=ストロース先生の考えるていどではそういう科学や学問のレベルになっていない、といいたかっただけです。
彼らの考えることは科学や学問になっていて、僕のいうことは科学や学問のレベルではない、と見下しているのか、見下したがっているのか。
科学とか学問というのは、「例外」をひとつひとつつぶしてゆくことでしょう。しかしそういう視線を持たないで、人間を上からの目線でざっくりと図式的にくくってしまうのがレヴィ=ストロースの提唱する「構造主義」であるのなら、そんなものは科学でも学問でもない、ただの「ゲーム」だ、といいたいのです。
そしてそうやって何でもかんでも図式的に片付けていい気になっている思考様式のことを、「近代合理主義」というのでしょう。
医学だろうと物理学だろうと人類学だろうと哲学だろうと、それらはほんらい「根源」を探ろうとする思考としてあるはずです。表層をざっと撫でて図式をまとめ、例外はこの際考えない、という「ゲーム」が、科学であり学問なのですか。
僕は、科学や学問を「ろくなもんじゃない」となんか思っていない。そんな西洋の「近代合理主義」という思考様式が気に入らないだけだ。そんな「ゲーム」にうつつを抜かしているだけのくせに、科学や学問をしているつもりのその傲慢な思考態度が気に食わないのです。
そうやって科学や学問をほんらいのかたちから変質させてしまっている「近代合理主義」が、どうしようもなく胡散臭いと感じてしまうのです。
たとえば、空気中の放射能のレベルを、どんな変化もどんな例外も見落とすまいと、毎日数時間ごとのデータをとり続けている研究者がいるとします。そういう研究はけっして表舞台に立つことはないだろうが、それこそが科学であり学問だと思う。
ざっくりと、その変化にはこんな法則があるんだよ、といってしまえば大向こう受けはするだろうが、そういう大雑把な法則など信じないでひたすらデータを取り続けている人は、その向こうのもっと根源的な何かを見つけ出すかもしれない。
「例外」などない根源のことを「真理」とか「定理」というのでしょう。
「真理」とか「定理」を探すことを、学問とか科学というのではないのか。
僕は「真理」とか「定理」という言葉はあまり好きではないし、あなたたちは僕よりも頭がいいが、べつに、あなたたちの考えることが僕よりも科学的だとも学問的だとも、僕は思っていない。