閑話休題

レヴィ=ストロースが死んだ。
あるブログで、そのことへの追悼というようなかたちで「真正性の水準」という概念に関することが書かれていた。
「真正性の水準」とは、「個々人が安定した社会的関係を維持できる集団の、個体数における理論上の認知的限界」のようなことをいうらしく、その「集団の個体数」とはおおよそ100から200人なのだとか。そしてこの数値をを数学の計算式を立てて割り出す方法があるのではないか、と管理人氏は言っておられた。
つまり、ある人にとっての「知り合い」だけでなく「知り合いの知り合い」まで含めたぐらいの集団の個体数が、ひととひとが仲良くしたりスムーズにコミュニケーションをとることのできる「認知的限界」であろう。それが100から200人くらいで、それ以上になると、法的規制などの「制度」をつくっていかないと集団を維持できなくなる、というわけです。
そして管理人氏は、この「真正性の水準」の計算式の立て方の基礎になる考え方を思いついた、という。それが、「知り合いの知り合い」という問題設定だ。
僕はこの管理人氏にどちらかというと好意を抱いているのだが、今回ばかりは、読んでいていささか不愉快になった。
こんなことをおもしろがっている管理人氏の衒学趣味にもなんだか違和感を覚えてしまうのだが、それ以上にこのブログで紹介されているレヴィ=ストロースをはじめとする学問の世界の研究者たちの思考態度というか思考レベルが、どうも気に入らないのだ。
頭のいい人たちは、こんな空騒ぎばかりしている。
何いってるんだか。人間の群れは、三人でも壊れてしまうんだぞ。すなわち、2対1の三角関係。人間は、誰もがこの2対1の「三角関係」をどこかしらに抱えながら、群れの中で暮らしている。そして、スタジアムに十万人が集まって一体感を持った集団になったりもする。このような人間の習性を、あなたたちはなんと考えているのか。このような習性抜きに、ただ「知り合いの知り合い」などというのうてんきな「認知条件」の輪だけで人間の群れが成り立つと思っているのか。他者を「認知」するとは、そこに三角関係がうまれて第三者を排除しにかかる、ということでもあるのだぞ。そして、誰もがわれを忘れて一体化してゆくときもある。そういう人間の習性(条件)抜きに「真正性の水準」という計算式が成り立つと思っているのか……僕は、そういいたかった。
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たしかに人間の群れは、どんなに大きくなっても100から200人の単位に細分化した集団(たとえば町内会やマンションの自治会のような)を持っている。しかしその細分化された集団は、「真正性の水準」として自己完結している集団ではなく、自己完結できないという自覚を持ちながら他の集団と連携してゆこうとする衝動を持っている。そして、連携しつつ、第三者を排除しようとする衝動も持っている。それは、個人と個人の関係においても同じで、人は、自己完結できない存在として、他者と連携しつつ、連携をより深めようとして第三者を排除してゆきもするし、排除されていると追いつめられもしている。
単純に「知り合いの知り合い」という問題設定だけで、人の群れにおける他者に対する認知行動が説明できるものではない。
たしかに100から200人が、人間のまとまって行動できる限界値ではあるが、「真正」の集団ではない。そのレベルでは自己完結できないのが、人間なのだ。自己完結できないでどんどん他者と連携してゆき、どんどん第三者を排除してゆくのが人間なのだ。
したがって、げんみつにいえば、人間の群れにおいては「真正性の水準」などというものは存在しない。三人の群れが「最悪」で、十万人の群れが「真正」になってしまったりするのが人間の群れのかたちなのだ。
「知り合いの知り合い」だとか「認知的限界」などというパラダイムで人間の群れが解析できるつもりでいる、そののうてんきな思考態度が、僕は気に入らないのだ。
そうやってあっさりと図式的に人間をくくってしまえるつもりでいる、その人間をなめているところが、レヴィ=ストロース構造主義の限界であり、彼もまた西洋の近代合理主義に頭の中を毒されている一人であるゆえんなのだと思う。
こんな薄っぺらな「真正性の水準」を持ち出して、レヴィ=ストロース先生は「人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献になりうる」と自画自賛しておられるのだから、笑わせてくれる。
「真正性の水準」を持ち得ない「混沌」こそが人間の群れのかたちなのではないだろうか。
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レヴィ=ストロース先生が、アマゾン奥地の未開の群れの首長にこう聞いた。
「あなたが持っている首長の特権のなかで、もっとも大切なものは何か」と。
首長は答えた。
「ほかの部族と戦うときに先頭に立って突撃してゆけることだ」と。
先生は、感激した。この首長の「献身的な精神」の高貴さに。
だけどこの首長にすれば、戦いの高揚感は先頭に立っているものがいちばん濃密に味わうことができる、と思っているだけかもしれない。人間として生まれてこれ以上の快楽はない、と思っているのかもしれない。
未開人や古代人は、命のやり取りをすることほど人間を高揚させることもない、と深く感じている。それは、われわれには及びもつかない生命観だが、きっとそうなのだ。
彼らに、平和の尊さがどうのと説いたって無意味だ。何しろ、原爆などという気味の悪いものを知らない人たちなのだ。手に石の槍だけを持って肉弾戦を挑んでゆくことの醍醐味は、彼らにしかわからない。
そして、レヴィ=ストロース先生を感激させた「群れに対する献身的な精神」が、そんなにも「高貴な精神」だとは僕は思わない。そんなことをいっていたら、特攻隊は全部肯定されてしまう。その行為におもむくことは、彼らの深いかなしみであったのであって、必ずしもかけがえのないこの生の高揚感ではなかったはずだ。
現代人の「献身的な精神」より、未開人や古代人による無邪気に「命のやり取りをすることに昂揚してゆく精神」のほうが僕はずっと「高貴」だと思う。
われわれの社会にはもう、彼らのような素朴で純粋な戦いはないのであり、そして、すでに「死の恐怖」をしこたま抱え込んでしまった存在として平和の中で生きようとするのなら、「あなたと出会う」という体験それ自体に「命のやり取り」をしているという側面を見出してゆくしかない。「おはよう」とあいさつを交わすこと、それ自体が命のやり取りをするいとなみなのだ。
われわれが、そのアマゾンの未開人から学ぶべきことは、「命のやり取りをすることの醍醐味」であって、「献身的な精神」などというものではない。そんなものは、ただの近代人のナルシズムであって、人間の「高貴な精神」などというものではない。
レヴィーストロース先生がそんな見方をしていたということは、彼が未開人をなめていた(上から見下していた)からであり、ひざまずいて彼らの心に推参してゆこうとする態度がいいかげんだったからだ。というか、この先生の思考のレベルはしょせんそのていどだった、ということだ。
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かのブログ管理人氏は、「知り合いの知り合い」というレベルまでが人間の他者に対する「認知(親和性)」が行き届く限界である、という。
そんなことをいったって、この世でいちばんよく「認知」しているはずの女房がいちばんうっとうしいと思っている男はたくさんいるし、三角関係の第三者は、より確かに「認知」されているからこそ排除したくなってしまうのだ。
人と人の関係においては、「認知しない」ということもひとつのたしなみだろう。
「認知」すればいいってものでもない。
子供をたくさん抱えた生活保護の母子家庭が月20数万円でやってゆくことのしんどさは、母子加算手当てをなくそうとしたお気楽な政治家連中にはわからない。それは、群れの規模が「知り合いの知り合い」のレベルを超えてしまっているからだ。だからそういう行政は、小さな規模の市町村レベルの自治体でできるようにしたほうがいい、と管理人氏は言う。
それはたしかにそうだ。僕だって、異論はない。
しかし、そのしんどさのもっともしんどいところは、「ほかの家庭より貧しい」という、三角関係の第三者の立場に置かれているのを自覚してしまうことにあるのだろう。
もしも、うまいものなんか食えなくてもいい、おしゃれな服を着なくてもいい、塾やお稽古事に行かなくてもいい、ただもう生きてゆければそれでいい、と家族の誰もが心底思えるのなら、しんどさのいくぶんかは軽減されるし、しんどさの質も違ってくる。しかし、そういう家庭の子供ほど、切実に、たまにはディズニーランドに行ってみたいし、おしゃれな服も着てみたいし、お稽古事もしてみたい、と思ってしまう。母親も、自分の服や食い物を削ってでもさせてやりたいと、泣きたい気持ちで願っている。
それは、人間が「100から200人」の「真正性の水準」とやらの群れ意識を持ってしまっているからであり、そうした身近な他者をあまりにもクリアに「認知」してしまうからだ。隣の何ちゃんの家はハワイ旅行に行ったとか、いつもファミレスでおいしいものを食べているんだってとか、そういう「100から200人」レベルの群れからの情報に、どうしようもなく追いつめられて生きてゆかねばならないからしんどいのだ。
僕には、解決策なんかわからない。しかし、「真正性の水準」とやらを錦の御旗のごとく振りかざしながら、そんな数値の計算にいい気になって戯れていられるなんて、くだらないと思う。
そんなものが「人類学から社会科学へのもっとも重要な貢献になりうる」とは、ぜんぜん思わない。ちゃんちゃらおかしいと思う。
人間が「100から200人」レベルの群れ意識を持っていることは、われわれの思考の前提ではあるが、たどり着くべき結論ではない。それが、解決になるのではない。問題は、そこからはじまる。