埋葬の感慨・かなしみとときめきの文化人類学4


人類の「世界の終わり=死」に対する親しみとしての「かなし」の感慨は氷河期の北ヨーロッパで暮らしていたネアンデルタール人のところで極まった、といってもいいように思えます。
氷河期の北ヨーロッパなんて、原始人が暮らしてゆけるようなところではなかったはずです。温暖期の今でも北ヨーロッパの冬は暗く荒涼としているが、さらに氷河期は年間の平均気温が7〜10度も低かったとなれば、その死と背中合わせの厳しさは想像を絶します。
そんなところに原始人の身で暮らしていれば、とうぜん、嘆きの感慨もいとおしさやときめきの感慨も、現代人よりもはるかに深かったことでしょう。
言い換えれば、原始人は、現代人のように「世界の終わり=死」に対する親密さを失っていなかったからこそ、そんなところに住み着いてゆくことができた。
ヨーロッパでビーズの文化が発達しているのはネアンデルタール人以来の伝統で、そりゃあもう、きらきら光るものが好きにならずにいられない人たちだったはずです。
彼らはそこに50万年前から住み着いていたのだが、火に対する親しみが彼らを生き残らせたのでしょうか。
ほかの動物は火を嫌うのに、なぜ人間がそれに対して親しみをおぼえたかというと、きらきら光るものだったからでしょう。
人類にとって火のゆらめきは、ひとつの華やぎだった。
火によって暖を取ったり肉を焼いたりする機能を覚えていったのはそれとの親しい関係を持ってからのことで、その目的で火との関係を持っていったということではない。まず、火に対する親しみがあった。
みんなで火を眺めていると、その厳しい環境のもとで生きる嘆きが癒されていった。
おそらく50万年前の時点ではまだ体毛に覆われていたから、火にたよらなくてもなんとかしのげたのでしょう。体毛があったから、そんなところまで拡散してゆくことができた、ともいえる。そしてそこにはいろんな動物が棲んでいたのだから、人間だって動物として暮らせないことはなかった。
人類が火を使いはじめた時期については、百万年前から数万年までのさまざまな見解があるのだが、おそらくネアンデルタール人の祖先は、北ヨーロッパに住み着いたことによって、いっそう親密になっていった。
何はともあれ人類の火との関係の起源は、純粋な火に対する親しみが契機になっているのであって、最初は何かの「道具」にしようとする目的があったのではないはないはずです。
人間は、生きるための生活情報よりも、生きてあることを忘れていられるものにこそより豊かに心を動かされてゆく。火は、そういう「きらきら光る華やぎ」だった。



火は、きらきら光るものであると同時に、「ゆらめき」を持っている。人の心は、しらずしらずそのその「ゆらめき」を追いかけている。ゆらめくという華やぎ、それを追いかけながら、しだいにみずからの身体や生きてあることの嘆きを忘れてゆく。そうやって意識が身体やこの生から離れてゆくことのカタルシスこそ「かなし」の感慨です。
ネアンデルタール人は、人間が生きられるはずのないところに生きていた人々です。したがってその生きてあることに対する嘆きは深く、そしてそのぶん豊かに生きてあることの嘆きを忘れてゆくカタルシスを汲み上げていた。彼らにとって火を眺めることは「世界の終わり=死」に対して親密になってゆく体験だった。おそらく、彼らほど火を深く愛した人類もいないのでしょう。
ヨーロッパ人は、今でも暖炉やキャンプファイアと親しむ習俗を持っている。
人の心は、火の「ゆらめき」に魅せられてゆく。
われわれにとって「刻々と変化する」ということは、ひとつの救いなのでしょうか。そのさまに心を奪われながら、そのつど「今ここ」の嘆きが引きはがされてゆく。「今ここ」から逃れ続けている「今ここ」がある。そうやって「今ここ=日常」が「非日常=死」の世界になってゆく。
ネアンデルタール人の一日は、きっと騒々しいものだったのだろうと思います。じっとしていたら凍え死んでしまいそうな環境だったのですからね。騒いだり動きまわったり、そうやって体を温めていた。死を厭わない危険な大型草食獣の狩が好きだったというのも、そういうことでしょう。それを集団でやれば、よけいに興奮する。
しかし、そういう興奮状態のままで眠りにつくことはできません。その興奮状態の心を引きはがし鎮めてゆくことによって眠りが訪れる。彼らはたぶん、そういう眠りにつくための儀式のようなものを必要としていた。毎晩それをしないと眠りにつけなかった。その儀式が、火を眺めることであり、男と女が抱き合ってセックスすることだった。
そうして、死んでしまったように眠りについていった。彼らにとって眠りにつくことは、死んでゆくことだった。
この生との別れのかなしみと死に対する親しみ、それが「かなし」の感慨です。ゆらめく火を眺めていると、そんな感慨が胸に広がってくる。そのカタルシスとともに人類は火との親しい関係をつくっていった。



まあ「きらきら光る」ということ自体がひとつの「ゆらめき」だといえます。
ダイヤモンドでも水晶でも、その輝きは、きらきらゆらめいている。
人間は生きてあることに嘆いている存在だからこそ、そういうものに大きく心を動かされてゆく。
生きてあることの嘆きを契機にして、生きてあることを忘れた「非日常」の世界に入ってゆくことのカタルシスが汲み上げられる。そうやって人類は、きらきら光るものが好きになっていった。
涙には「かなし」の感慨がやどっている。まあネアンデルタール人は、人類でもっとも深く「かなし」の感慨を体験し、その象徴である涙にもっとも深く心を動かされていた人々であったはずです。そこから、ヨーロッパの「ビーズ」の文化が生まれてきた。まあ彼らは心が華やいでゆく体験を豊かに持っていたから、原始人が生きられるはずのないその地に住み着いてゆくことができたのでしょう。
人は、しらずしらずそのきらきら光るもののゆらめきを追いかけている。
ほかの動物でも動いているものを追いかけるという心の動きを持っているが、きらきら光るもののゆらめきを追いかけるのは、人間だけでしょう。ほかの動物は、むしろいやがる。コガネムシのきらきら光る羽の色などは、おそらく保護色になっているのでしょう。
まあ目は、体の中のきらきら光る部分であり、動物は外敵のその目をいやがっている。だから田んぼに目の玉のかたちをしたものを置けば、カラスやスズメなどを追い払う案山子の代用になる。



とにかく生き物は、動くものを追いかけるという習性を持っている。
ある人はこれを、「予測する」という本能だといっています。ネコがネズミを追いかけライオンがシマウマを追いかけているときその動きの先を予測しているというのだが、それは文明人のスケベ根性というもので、ネコやライオンは、ただもう純粋に「追いかける」というそのことのカタルシスに熱中していっているのだと思えます。もちろん別の一頭が待ち伏せするということはあっても、それはまた別の話で、追いかけている個体は、追いかけるというそのことに熱中している。
またシマウマも、「追いかけられている」というそのことにはまり込んで、振り切ってしまえるのに振り切ってしまわないときがある。そのときシマウマもまた、「追いかけられている」ことを「追いかけている」。それは、他者の身体とのあいだに「空間=すきま」をつくろうとする生き物の本能で、シマウマの意識は、ライオンの身体とのあいだにあるその「空間=すきま」に憑依して、「未来」という外部を志向しなくなってしまっている。
シマウマに未来を予測するというような現代人的な自意識があったら、ライオンのいるそばで草を食んでいるというようなことはけっしてしないはずです。
生き物の本能は、未来など予測しない。緊急事態であればあるほど、「今ここ」をこの生のすべてとして「今ここ」にはまり込んでしまう。本能というなら、たぶんそれが本能でしょう。だから、東日本大震災津波がやってきたときも、あんなにもたくさんの犠牲者を出してしまった。さっさと逃げればいいだけなのに、意識が「本能」というエアポケットに入ってそれができなくなってしまった人がたくさんいた。
生き物の意識が、「今ここ」で動いているものを追いかけているときこそ、「今ここ」にはまり込んでしまっている。
動いているものを追いかけていれば、意識は自分の身体から引きはがされて、動いているものに憑依してしまっている。その、自分の身体に対する意識がからっぽになってしまうことのカタルシスがある。そうやってイヌやネコは何でもかんでも動いているものを追いかけてしまうし、人間はさらに切実にそうした自分の身体に対する意識がからっぽになってしまう体験の華やぎを希求している。
動物が火を怖がるのはそれが「熱い」ということを知っている条件反射なのだろうが、人間はそれでもそのきらきら光るもののゆらめきに魅せられていった。そうやってこころが華やいでいった。



乳幼児は動く自動車を見るのが大好きだが、その行く先を予測することが彼らのよろこびになっているはずもなく、「追いかける」というそのことに夢中になっているだけでしょう。彼らはそれほどにこの生やこの身体に嘆きがまとわりついている存在で、動く自動車を追いかけながら、その嘆きを身体から引きはがしている。つまり、身体がからっぽになっている。そうやって、心が華やいでいる。
すべての生き物は、「今ここ」に存在することのいたたまれなさを負っている。草や木だってそうです。だから、「生物多様性」とか「棲み分け」ということが起きてくる。この生を、むやみに膨張させたくない。それは、いたたまれなさが膨張することと同義なのです。そのいたたまれなさからの逃走として、「追いかける」という心の動きが生まれてくる。
生き物のの体が動くことは、何かを追いかけることであると同時に、いたたまれなさからの逃走でもあります。
東日本大震災津波から逃げ遅れた人の中にも「来てから逃げればいい」というような気持ちがどこかにあったとすれば、それは、意識を身体から引きはがそうとする衝動だったのかもしれない。本格的に逃げるということをしたいという衝動、緊急事態に立ちたいという衝動、そのときこそ、この生のいたたまれなさからのダイナミックな逃走が体験できる。
人の心は、生きてある今ここという日常にいたたまれなさを抱いている。そこから離れて「非日常」の世界に入ってゆきたいという衝動がある。今ここの非日常の世界に入ってゆきたいということ。だから、来る前に逃げるということではそれを体験できない。彼らは、「今ここ」の体験として逃げようとした。「逃げる」というより、「非日常」に向かって消えてゆこうとするのが、外敵に襲われたときの生き物の本能的な心の動きです。その本能によって、逃げ遅れてしまった。
東北の人たちは、西日本の地域以上に「かなし」の気分が深い歴史意識を持っている。その気分も災いしたのかもしれない。ネアンデルタール人は、「かなし」の気分からカタルシスを汲み上げながら、その厳しい環境から逃げ出さなかった。彼らはそこで、火とともに暮らしながら「非日常=死」に向かって消えてゆく生きる作法を見出していた。
人類の火に対する親しみは、「非日常=死」に向かって消えてゆくというか、心が「非日常」に浸されてゆく体験なのです。
東北の人々だって、囲炉裏の火とともに歴史を歩んできたわけで、津波を前にして、ふと「非日常=死」に向かって消えてゆこうとする衝動に誘われてしまったのかもしれない。
「今ここ」をやりくりしてゆくのが、生き物のいとなみです。予測する本能などというものはない。それほどに生き物はは、「今ここ」のこの生やこの身体に対する嘆きにまとわりつかれている。まあ人間以外の生き物はそんなことを自覚しているわけではないが、人間はそれを自覚している。猿以上に「今ここ」のこの生やこの身体に対する嘆きにまとわりつかれている身体能力の脆弱な猿で、だからこそ、猿以上に「今ここ」を生きるほかない与件を負っている。
身体能力が脆弱な猿であることこそ人間のアイデンティティであり、より住みにくいところへ拡散してゆくことはすなわち、身体能力が脆弱な猿になるということです。身体能力が脆弱な猿になることこそ人間の自然で、その嘆きを共有しながらきらきら光るもののゆらめきに対する愛着を深くしていった。



氷河期の北ヨーロッパに住みついていたネアンデルタール人ほどこの生やこの身体の嘆きに深くまとわりつかれている人々もいなかったが、だからこそ彼らは、その嘆きを引きはがしながら「非日常=死」に向かって消えてゆくカタルシス(華やぎ)を地球上のどこよりも深く体験していた。そうやって彼らは、火とともに暮らし、毎晩セックスして抱き合って眠りについていた。
人の心はどうしても「ゆらめき」を追いかけてしまう。それは、火に対してだけではない。人と人が向き合いながら、たがいの表情や心の動きという「ゆらめき」に対しても関心を交し合おうとする。人類史におけるそんな生態は、ひとまずネアンデルタール人のところで極まった。
ネアンデルタール人の末裔であるヨーロッパ人は表情や身振り手振りがとても豊かで、そうやってたがいに心の「ゆらめき」を表現し合い追跡し合っているのでしょう。おそらくその生態は、ネアンデルタール人のところからすでにはじまっていた。
そこは、人の死がいつも起きている社会だった。
生まれた子供半分以上は大人になる前に死んでいったし、大人だって、三十数年しか生きられなかった。
そんな喪失感をいつも体験している人々が涙もろくならないわけがなく、そこから「ビーズ」の趣味が発展してきた。涙もまたゆらめききらめくものであり、ビーズは彼らの涙の形代だった。そうしてやがて、死者の埋葬にはたくさんのビーズを添えることが習慣になっていった。



人類の埋葬は、ネアンデルタール人がはじめた。それはもう、そのころの地球上でもっとも埋葬をはじめる契機を持っている人々だったからです。
人類がなぜ埋葬をはじめたかといえば、死者に対するかなしみが極まったからです。それ以上それ以外の契機なんかあるはずがありません。
人類学ではおおむね「霊魂とか死後の世界という概念を発見したからだ」とか「知能が発達したからだ」というような説明がなされているのだが、何をばかなことをいっているのだろうと思います。
かなしみが極まらなければ、埋葬という習俗は生まれてこないのです。
ネアンデルタール人は、洞窟の土の下に埋葬していた。そんなところに埋めてしまったら、霊魂は天国にいけないじゃないですか。
彼らは、ただもうそうしないとかなしみに納まりがつかなかったからです。おそらく生まれてすぐに死んでいった赤ん坊を埋めたのがはじまりだろうと思うのだが、そうやって少しでも母親の嘆きを宥めようとしたのでしょう。いくら母親が離れたくないと泣き叫んでも、外に出しておけば腐ってくるし、もう、ふだんの住処である洞窟の土の下に埋めるしかなかった。
彼らの社会では、誰もひとりでは生きられなかった。男と女が抱き合って眠らないと凍え死んでしまう環境だったのです。どんなに強い男もひとりでは生きられなかったし、誰もが他者を生かそうとし合いながら暮らしていた。そして、かんたんに死んでしまう赤ん坊を生かそうとすることはもっと切実だった。けんめいに生かそうとするから、死んでしまったときの嘆きも痛切だった。母親はもう、ほとんどヒステリー状態だったのでしょう。
そして、誰もが他者を生かそうとしていたということは、死はみんなでかなしんだ、ということです。乳離れした子供は、大人も子供も一緒になってみんなで面倒をみて育てた。母親はすぐに次の妊娠出産に入ってゆくからそうするしかなかったということもあるが、母親ひとりでは子供の死に対するかなしみを背負いきれなかった。
その「みんなでかなしむ」という習慣があったから、みんなが住んでいる洞窟の土の下に埋めるという発想にもなっていった。



霊魂は死んだら体から離れてゆくものだから、死体を埋葬する必要なんかありません。現在のヨーロッパ人にとっての死体は、ただの霊魂の抜け殻です。それでもそれを埋葬せずにいられないのは、生き残ったものたちのかなしみに納まりがつかないからであり、そういうネアンデルタール人以来の伝統を持っているからでしょう。べつに、霊魂のために埋葬しているんじゃない。寺院の高僧なんかは、埋葬しないでしゃれこうべを残したりミイラにしたりしていることもある。ソビエトレーニンにいたっては、薬で処理して死体そのままを残している。霊魂の抜け殻だから、埋葬しなくてもいいのです。
霊魂とか死後の世界などという概念を持ったって、埋葬の契機にはならない。ましてや「知能」だけで埋葬の習俗が生まれてくるはずもない。
この地球上のすべての人類が、かなしみが極まって埋葬しているのです。
死者に対する「かなし」の感慨は、人類普遍のものです。ネアンデルタール人はその喪失感と死者に対するいとおしさが極まって埋葬をはじめたのであって、霊魂なんか知らなかったのです。どこにも行かせたくないから洞窟の中に埋めたのだし、あきらめきれない思いをあきらめるために埋葬したのです。そうして、ありったけの涙とともにビーズを添えて埋葬するようになっていった。
それは、死者を「あの世」に送るというのではなく、死者とともに生きる作法だった。これが、人類の埋葬の起源です。
ネアンデルタールクロマニヨン人は、惜しげもなく死者の棺にビーズを捧げていた。もう、集落中のビーズをぜんぶ投げ出したのではないかと思えるくらいの例もあります。これも、ひとつの華やいでゆく心のあらわれでしょう。
ビーズは、彼らのかなしみの形見であり、心の華やぎの形見でもあったのであって、人類学者のいうような「富」や「社会的地位」の象徴だったのではない。そんな観念は、氷河期明けの共同体(国家)の成立とともに生まれてきた制度にすぎない。
死と背中合わせのような環境をみんなで身を寄せ合うようにして生きていた人々の社会に「富」など「社会的地位」などというややこしいものが生まれてくるはずがない。そんなものを持って自分だけ威張って生きられるような人間などひとりもいなかった。誰もがけんめいに他者を生かそうとしている社会だった。
人類が金銀宝石を私有財産とするようになるには、それまでの無数の涙の歴史が横たわっているのです。
人間の心の動きの自然は「かなし」の感慨にあるのであって、生きるための生活情報を追求することにあるのではない。人の心は、そんなことが無意味になってしまう世界に入ってゆきたがる衝動を持っている。というか人間は、そんな世界に誘惑されている存在であるということでしょうか。原初の人類が二本の足で立ち上がって以来、そうやって「非日常=死」の世界に入ってしまう心とともに生きてきた長い長い歴史があり、そこから金銀宝石を価値とする制度が生まれてきた。
根源的には、人間は未来に向かって生きてゆこうとする存在であるのではない。人間にとって生きてあることは「世界の終わり」の「かなし」の感慨の上に立っていることであり、そこから「いまここ」の心が華やいでゆく体験に誘惑されている。
はじめに「かなし」の感慨がある。人間の思考や行動の本質を問おうとするなら、まずそのことが問題になる。
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