閑話休題・滅びの季節


現在の日本人にとって八月は、太平洋戦争の敗戦のことを思い出す季節になっているらしい。
八月は滅びの季節、夏の暑さで体力を消耗した老人や病人の多くが死んでゆく。
僕の父親も、八月に死んだ。
八月は、死者を思う季節。
そうして、太平洋戦争の敗戦を思い、沖縄玉砕のことを思い、原爆のことを思う。それは「世界の終わり」を思うことでもあるのでしょう
今年も、多くの人が戦争の悲惨さを語っていました。
確かに戦争は悲惨なことなのでしょう。そうして戦争を遂行した政治家や軍部の愚かさを糾弾し、それは避けられたはずのことだと嘆き、二度と戦争をしてはならないと反省してゆく。
戦争の犠牲になって死んでいった名もなき兵士や民衆がたくさんいる。それは確かに悲惨なことなのだが、この平和な時代に生き残っているものたちがそのような感想を持つとき、「それにくらべて自分たちの生は豊かで満ち足りている」という自己満足はないのでしょうか。そういうことと比べて「悲惨」といっているのではないのか。自分たちだってただの名もなき民衆としてやがて死んでゆくだけの身であるくせに、どうして自分たちのほうがましだという気になれるのだろう。
「戦争は悲惨だ」といってしまうことによって、死者の尊厳に対する敬意がすっぽり抜け落ちてゆく。「悲惨だ」という前に、そこでその人が死んでいったという事実があり、死んでいったという事実の尊厳がある。「悲惨だ」と語るにことによって、その「尊厳」がすっぽり抜け落ちてゆく。
彼らの思い上がった正義感は、平和な世の中を生きるものたちの鈍感で傲慢なナルシズムでもある。



生き残った兵士たちの多くは、戦後、なかなかその体験を語ろうとしなかった。「悲惨だ」と語ることが死者の尊厳を奪ってしまうことになる、という気分がどうしようもなく疼いていたからでしょう。
死んでゆくことがただ悲惨でなんの価値もないことだと思えるのなら、戦争なんかやっていられない。死んでゆくことなんかできない。みんな「死者の尊厳」を胸に刻みながら戦っていたのです。
海ゆかば」は、日本人がもっとも好きな軍歌のひとつです。


海行(うみゆ)かば 水漬(みづ)く屍(かばね)
山行(やまゆ)かば 草生(くさむ)す屍(かばね)
大君(おおきみ)の 辺(へ)にこそ死(し)なめ
かへりみはせじ


兵士たちは、どうしてこんな悲惨な光景の歌を好んで歌ったのだろう。悲惨に死んでゆくことの尊厳を誰もが信じていたからでしょう。
だから生き残って平和な世の中に戻ってきても、そうかんたんに「戦争は悲惨だ」といって済ませられない。悲惨さにこそ死者の尊厳がある。そのことをもう、身にしみて知っている。
できることなら、あいつに代わって俺が死んでやりたかった。それではじめて俺とあいつの値打ちは釣り合う……というような気持ちは、東日本大震災津波を体験して生き残った人たちにもあることでしょう。十代の若者が死んでいって80歳のおばあさんが生き残れば、どうしたってそういう気持ちになるでしょう。生き残ってうれしいというより、生き残ったことの無念さのほうが先に立つ。そうやって生き残った兵士たちは、沈黙したまま戦後を生きてきた。彼らは、死んでゆくことより生きていることの方が価値があるとは思えない。彼らは、戦争を知らないわれわれよりもずっと深く「死者の尊厳」を知っている。重苦しいことだけど、戦後はもう沈黙して生きるしかなかった。
戦争を知らないものたちの「戦争は悲惨だ」という正義の合唱が、彼らの口をより重くしていった。戦後を生きる彼らの戦争に対する思いの中心にあったのは、戦争の悲惨さではなく、死者の尊厳だった。
平和な世の中を生きている者たちは、「戦争は悲惨だ、悲惨に死んでいったものたちはかわいそうだ」と合唱しながら、平気で死者の尊厳を否定し、自分たちの生を肯定・正当化してゆく。
しかし、生き残った兵士たちは、そんなことができないのです。死者の尊厳を思い、生き残った自分の無残を思いながら生きてゆかねばならない。それはほんらい不自然なことでもなんでもなく、人間はもともとそのようにして生きてある存在なのだが、現代社会は死者の尊厳を否定することの上に成り立っている。
死者の尊厳を否定しながらいつ死ぬかわからない情況の戦地で戦っていたら、気が狂いそうになる。それが現代の兵士のメンタリティのむずかしさだが、それでも戦地にいれば、いやでも死者の尊厳を思い、死んでもかまわないという思いにもなる。しかし平和な社会に戻れば、自分の戦地での記憶が「死の恐怖」とともにわっとよみがえってくる。じっさいにその場にいたときの恐怖よりも何倍もの恐怖になってよみがえってくる。彼はもう、戦地でしか生きられない心になってしまっている。戦地と平和な社会での価値観や人間観が逆転してしまっている。戦地では、殺すことも殺されることも肯定されている。いったんそんな状況に置かれたらもう、現代の平和な社会では生きてゆけない。戦争は悲惨だといって死者を否定する平和社会の合意が、帰還兵士のPTSDをいっそうやっかいなものにしている。



戦争で虫けらのように死んでいった人たちのことを、かんたんに「悲惨だ」とか「かわいそうだ」とかいえないですよ。平和な世の中を生きるわれわれの生の方がすばらしいわけでも豊かであるのでもないのだから。どんな死に方だろうと、生き残っているものより死んでいったものたちのほうが尊厳なのです。死んでいったというそのことが尊厳なのです。
「戦争は悲惨だ」なんて、平和な世の中を生きているものたちの傲慢です。
その悲惨さの中にこそ、死者の尊厳がある。
原爆体験や沖縄玉砕がどんなに悲惨だったかというわれわれのセンチな感想なんかどうでもいいのです。そのとき彼らはそうやって死んでいったという厳粛な事実があるだけです。ただ悲惨でかわいそうだというだけではすまない。その事実の尊厳というものがある。それは確かにひとつの受難ではあるが、そこにこそ人間であることの尊厳がある。人間は受難を引き受ける存在である、ということを彼らが証明している。あってはならないといってももう取り返しがつかないことだし、人間のすることだからこれからもいろんな場面でかたちを変えて起きてくる。沖縄玉砕における、そこに人間が存在していたという厳粛な事実を、われわれはどう受け止めればいいのか。
彼らは、人間の尊厳を歴史に刻んだのです。
太平洋戦争の敗色が濃厚になってきたころには、日本兵による自分の死と引き換えの玉砕戦法はもう、神風特攻隊だけではなかった。彼らはもう、自分が死ぬことも敵を殺すこともためらいはなかった。沖縄戦では、国と運命を共にするかのようにたくさんの民間人が自決していった。
戦争においては、死が称揚される。その世界に入ってゆけばもう、誰もが死をためらわない。そんな彼らの死を、平和な世の中のものたちがどうして「悲惨だ」と裁断できるでしょう。彼らは、死の尊厳に殉じたのです。そしてそれは人類の普遍的な死に対する感慨であり、平和の世の中でも人びとは死者の尊厳を思って葬送儀礼をしている。
まあ、戦争になると、そういう人間性が突出してしまう。
人は、運命=受難を受け入れる。戦争になれば、戦争という運命=受難を受け入れてしまう。そういう運命=受難を受け入れて死んでいった人に対する敬意は持っても罰が当たるまい。平和な社会の、運命=受難を受け入れることができない強迫観念で「悲惨だ」「かわいそうだ」と裁断してしまっていいのだろうか。
彼らの悲惨な体験をかわいそがって、それを自分の正義や自己肯定のための材料として消費してゆくなんて、何か変です。そうやって同情する自分のやさしさや正義感に酔っているだけ。その運命=受難を受け入れることの尊厳に思いをはせるというようなことができない。平和な社会に生きていると、運命=受難を受け入れることができない強迫観念のほうが強くなってしまう。そうして生き残ることが価値であるかのようにみんなで合唱している。
それは死んだらいけないことだったのではない。そんなふうに否定するべきではない。それはもう取り返しがつかない厳粛な事実なのです。
人間は受難を引き受ける存在であるということ、それは人間の自然であり、尊厳だともいえるのだろうし、何はともあれ兵士たちはその心を携えて戦っている。
人間は「世界の終わり」から生きはじめる。心は、そこから華やいでゆく。人間は「世界の終わり」という受難を引き受けたところから生きはじめる。
平和な社会にも「世界の終わり」や「受難」はある。人がこの世に生まれ出てきたということ、それ自体が「世界の終わり」であり「受難」であるともいえる。じつは、そういう思いを心の底に携えて人と人はときめきあっている。そういう無意識の自覚が希薄な社会で「戦争は悲惨だ」とか「政治家や軍部は愚かで戦争は避けられたはずだ」というようなことばかりいうのは、死んでいった人たちの顔に泥を塗っているのとある意味一緒なのです。彼らは、そうやって自分たちの生を正当化し、そこから他者を裁くことばかりしている。
あの戦争で死んでいった人たちの体験をただの惨めな犬死だと解釈しながら、「二度と戦争をしてはならない」と合唱している。「二度と戦争はしてはならない」という正義のためには、彼らの死をみじめな犬死だということにしてしまっていいのか。
そんな正義のお題目をあげる前に、われわれは、彼らが死んでいったという厳粛な事実のその尊厳にひざまずくということをしてもいいのではないのか。
「二度と戦争をしてはならない」というあなたたちの正義感などどうでもいいのですよ。その合唱が帰還兵士のPTSDをよりやっかいなものにしている。



歴史意識とは、死者を思うことです。われわれの前には無数の死者が存在している。それを思うことは、「世界の終わり」の場に立つことであり、人はそこから生きはじめる。
あの戦争では無数の人が死んでいったというその厳粛な事実のその尊厳がある。彼らは、この生の受難を引き受けて死んでいった。死んでゆくという受難、死んでゆくことは受難を受け入れることであり、この世に生まれ出て生きてあるということもまた受難を受け入れている状態です。
しかし現代社会では、死者の尊厳などすでになく、自分が生きてあることの正当性にしがみつきながら、他者や死者を裁くことばかりしている。そうして裁くものどうしのコミュニティをつくって、それぞれ自分の存在の正当性を確認し合っている。彼らは、自分の存在の正当性にしがみついて、運命=受難を受け入れるということがうまくできない。だから、戦争で死んでいった人びとのことを「ただの悲惨な犬死」だということにしてしまおうとする。
戦争を知らない人間が「戦争は悲惨だ」などといったって、よけいなお世話なのですよ。どんなにみじめな犬死だろうと、生き恥さらして生きている人間からえらそうな裁断をされるいわれはない。どんなに悲惨な死だろうと、そこにこそ人間の尊厳があるのであって、あなたたちのナルシズムの中にあるのではない。
われわれは、「戦争は悲惨だ」などといえる柄ではないのですよ。
人が死んでゆくということは、どんな犬死だろうと、生きてあることよりもずっと厳粛なことなのですよ。ほんらい人は、そういう歴史意識を携えて生きてある存在なのではないでしょうか。人間は死者のことを思う存在であり、死者のことを思うことは、死者の死にざまを悲惨だとかかわいそうだと裁断することではなく、死んでいったという事実の尊厳について思うことではないでしょうか。
八月はあの戦争が終わった月であり、滅びの季節です。死者のことを思う季節です。
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