「今ここ」に・ネアンデルタール人論63

 集団的置換説の代表的な提唱者であるC・ストリンガーをはじめとする今どきの人類学者たちの多くは、どうして「ネアンデルタール人は同時代のアフリカのホモ・サピエンスに比べて知能が劣っていた」と決めつけるのだろう。えらそうなことをいっても彼らは、人間の知能のなんたるかを何もわかっていない。まったく、アホじゃないか、と思ってしまう。
 この国のプロの研究者を含めた古人類学フリークたちも、口をそろえてそんなことを合唱している。人間に対する思考力や想像力が貧困すぎます。
原始時代だろうと現代だろうと、人類の知能なんか、世界中どこでもそう変わりはないのです。人類が地球の隅々まで拡散していったということは、人類の知能や遺伝子なんかたちまち世界中に伝播して平均化してゆくということです。
現在のヨーロッパ人とアフリカ人とのあいだに知能の差があるといっても、千年一万年単位の時間には平均化してゆく。現在のアメリカに住む白人と黒人の知能のどちらが優れているかといえば、すでにどちらともいえないでしょう。黒人の学者や芸術家もいれば、無知無教養の白人もいる。両者の脳のはたらきそのものに優劣はない。現在の未開の地の赤ん坊を東京に連れてきて育てれば、東大に入れるようにもなる。
 50万年前のヨーロッパ人もアフリカ人も遺伝子的には同じだったらしいが、寒い地で暮らせば知能は発達しないというのなら、クロマニヨン人の知能だって発達するはずがない。また熱帯で暮らせば知能が発達するという根拠もない。熱帯には熱帯の知能や文化が発達するし、寒い地方にもそこで発達した知能や文化がある。
 そして、人類の文化のイノベーションは拡散しながら起きてきたということもある。それは、より住みにくい地住みにくい地へと拡散してゆく動きだったわけで、その住みにくさを克服してゆくというかたちで文化のイノベーションが起きてきた。
 たとえば、アフリカのホモ・サピエンス北ヨーロッパネアンデルタール人とどちらがより大きな集団をつくっていたかといえば、極寒の環境下で震えていたネアンデルタール人のほうに決まっています。人類は、拡散してゆくことによって猿のレベルを超えた大きな集団を持つことができるようになっていった。それによって人類の文化がどのように進化発展していったかという問題があるはずだが、そのことを本気で考えようとしている人類学者なんかほとんどいない。
 それは、人と人の関係の文化の問題であり、これ以上の人間的な文化の問題もないでしょう。まあこのことを『ネアンデルタール人の正体』という本でお茶の水女子大教授の言語学者が少し語っていたが、ネアンデルタール人は愚鈍で集団運営の能力がなかったとかなんとか、あきれるくらい思考のレベルが低くて話にならない内容だった。
人類拡散の果てに登場してきたネアンデルタール人のところに人間的な文化の起源の契機がないはずがないわけで、彼らは地球上でもっとも生きにくさを生きていた人々だった。そうやって50万年の歴史を歩んできて、人と人がときめき合い連携してゆく文化が何も育ってこないはずがないじゃないですか。
アフリカには見ず知らずの相手と関係してゆく文化の伝統はないし、ネアンデルタール人はもうどんな相手とでもいっしょに暮したし、男と女は相手を選ばず毎晩セックスしていた。
アフリカ人は部族意識が強く、知っている相手としか一緒に暮らそうとしない。それが、良くも悪くも700万年のサバンナの歴史です。しかし人類は、拡散しながら、たとえ知らない相手とでもときめき合いながら連携してゆく文化を育ててきた。ネアンデルタール社会の「乱婚」という習俗は、そういう歴史の上に成り立っていた。
またそこは、寒さのために赤ん坊や子供がかんたんに死んでゆく環境だったから、そういう死にそうなものを介護して生きさせようとする文化も育たないはずがなかったし、それによって人類は赤ん坊を未熟児のまま産んで育ててゆくという生態を獲得していった。
ネアンデルタール人のところから起きてきた人類文化のイノベーションがあったはずなのです。


もともと人類は生きることに有能な猿ではなかった。原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、生きることに無能になってゆく体験だったのであり、そこから心が華やぎときめき合ってゆく人間的な関係が生まれてきた。
人類の歴史は、生きにくさ=無能性を生きようとする歴史だった。そういう生態を持っていたから、より住みにくい地住みにくい地へと拡散していったのでしょう。人類はひとまず無能な存在になり、その生きにくさから文化のイノベーションを生み出していった。
生きることに無能であることこそ、人間であることの与件です。
無能な存在になって「もう死んでもいい」という感慨を抱き、そこから華やぎときめいてゆく。
そのころ地球上で、その苛酷な環境との相対的な関係においてネアンデルタール人ほど生きることに無能な存在もなかった。しかしだからこそ、そこから心が華やぎときめいてゆき、さまざまな人類文化のイノベーションを生み出してきたはずです。
まあ、何はさておいても「埋葬」という文化がネアンデルタール人のところからはじまっていることは、どう考えても疑えない。
ストリンガーをはじめとする置換説の研究者たちは、30万年前のネアンデルタール人の洞窟からたくさんの人骨が出土したことに対して、そこは死体の捨て場所だった、などといっています。まったく、あきれ果てるほど横着で乱暴な思考です。氷河期の極北の地で暮らす原始人にとって、洞窟以上の洞窟以外の寝起きする場所などなかったはずで、そんな貴重な場所をどうしてそんないい加減な使い方ができるでしょう。また、死体をそのまま置きっぱなしにしていたら、腐臭が立ち込めてくるし、ハイエナなどの肉食獣に襲われる危険もある。だったら、そこに埋葬したに決まっている。その自分たちの住処の土の下に埋めるという習俗は、クロマニヨンの時代になっても引き継がれていた。
死者とともに暮らすということ、そういう死に対する親密さから人類の「埋葬」という習俗がはじまった。そして死に対する親密さは、そのころの地球上でネアンデルタール人がもっとも深く切実だった。
人類の「埋葬」の起源の契機は、知能がどうのというような問題ではない。
生きることに無能な存在になることが生きる作法であった人類の歴史は、死に対する親密さがどんどん深く切実になってゆく歴史でもあった。その思いがネアンデルタール人のところで極まり、「埋葬」という習俗が生まれてきた。彼らほど死にそうなものを生きさせようと懸命に介護していたものたちもいなかったし、彼らほどその死を深く悲しんだものたちもいなかった。


 人は、死に対する親密さとともに、生きにくさを生きようとする。それはもう、直立二足歩行の開始以来の人類史の伝統だともいえる。その伝統が、ネアンデルタール人のところで極まった。
この国の今どきの一部の若者が生きることに無能であるのも「もう死んでもいい」という無意識の感慨を持っているからでしょう。彼らはそのぶんだけ世界や他者に他愛なく豊かにときめいているのであり、そうやって「かわいい」とときめく文化現象が生まれ、世界中から「ジャパンクール」ともてはやされている。
それは、「ときめき」が薄くなっている時代の反動だともいえる。
もともとこの国には、人と人が他愛なくときめき合う文化があった。だからペニスは硬く勃起したが、そのぶん人々の思考や行動がどこか幼稚で、戦後の進駐軍の総帥であるマッカーサーからは「日本人の思考は14歳のレベルから成長できない」などともいわれたし、いまだに外交交渉の駆け引きがうまくできない。良くも悪くも、そういう民族なのでしょう。
14歳といえば、女のセーターの胸のふくらみを見ただけで勃起してしまう年代です。そういう感性の社会であったのに、今や勃起不全や少子化が社会問題になってしまっている。それだけ人と人の他愛なくときめき合う関係が後退しているのでしょう。もともとそういう社会だったからこそ、その反動が起きて、若者たちのあいだで「かわいい」とときめく心模様の文化現象や生きることに無能な者たちがあらわれてきたりしている。他愛なく「かわいい」とときめいていたら生きられない社会で、他愛なく「かわいい」とときめく若者たちがあらわれてきた。
生き延びることに有能であることが追求されている社会になって、生き延びることに無能な若者たちが増えてきた。そんな世知辛い競争社会であるのに、それでも一部の若者たちは他愛なく「かわいい」とときめいている。その体験さえあればもう、たくさんお金を稼いで生活のあれこれを飾りたてることなんかできなくてもいい、食うものはコンビニ弁当、着るものはユニクロ、一流レストランに行けなくとも居酒屋でいい、自家用車なんか持てなくてもいい……彼らのその心模様を延長してゆけば、ネアンデルタール人が氷河期の北ヨーロッパという苛酷な環境に住み着いていた心模様にたどり着く。人間とはそんな生き物であり、人間性の自然は他愛なくときめき合うことにある。死に対して親密な「もう死んでもいい」という無意識の感慨を基礎にして、世界や他者に他愛なくときめいてゆく。生きることに無能であるとはそういうことであり、そこから人間的な知性や感性が生まれ育ってくる。


現代は、「勃起=ときめき」が不調な社会になっている。日本人の男の精液の中の精子が少なくなってきている、ともいう。それも、少子化の一つの原因なのでしょうか。そういう生物学的な問題が、閉塞感という、おそらく社会の構造の問題でもあるのだろうというかたちで起きてきている。
日本人はもともと西洋人のように夫婦が毎晩のようにセックスするという習俗がない。だから、精液の中の精子の数が少なくなれば、とうぜん子供の数も増えにくくなる。言い換えれば日本人は、毎晩のようにセックスしなくても、精液の濃さや勃起のダイナミズムで人口を増やしてきた、ということでしょうか。
日本文化は、西洋ほどには変態セックスの文化は発達していない。それだけ日本人のセックスは本能的だったのでしょう。異民族との戦争のない島国だったから、知らない男女でも他愛なくときめき合ってセックスしてゆく文化の伝統がある。だから西洋人からは、日本人はセックスに対する倫理観が希薄だといわれている。それはまあ、一般的には、西洋にはキリスト教があるのに対して日本人は無宗教だからだということになっているのだが、西洋人のほうが人種の違いにこだわらない公平で無邪気な視線を持っているということもある。彼らは、平気で異人種の子供を養子にしたりしている。いずれにせよ他愛なく本能的にセックスをしてゆくのが直立二足歩行の起源以来の人類史の伝統です。
もともと人類は、たとえ見ず知らずの相手とでも他愛なくときめき合って、他愛なく本能的にセックスしてきた。そうやって一年中発情している猿になり、そうやって地球の隅々まで拡散していった。
しかし戦後のこの国では、男の精液の中の精子の数が少なくなり、変態的なセックスにあこがれるようにもなってきた。人間性の自然としての他愛ないときめきが希薄になり、無意識のうちにストレスをため込んでいる社会の構造になってきた。それには、戦後の核家族の閉塞感とか、経済優先の社会的な人間関係とか、まあいろいろな問題があるのでしょう。平和で豊かな社会になったのに、それでもそんな不自然で変態的な傾向になってきた。


ネアンデルタール人の社会では、人口の半分以上が子供のうちに死んでいった。もしもその子供たちが全部大人になることができたら、爆発的な人口増加になっていたことでしょう。苛酷な環境のほうが精液は濃くなるのでしょうか。この国の終戦直後だって食糧難で栄養状態は最悪だったのに、ベビーブームが起きた。
生物の世界においては生きることに有能な個体ばかりが生き残るという状況などはなく、むしろもっとも生きることに有能な個体は淘汰される、というような法則があるのかもしれない。これを数学的にどう表せばいいのかよくわからないが、人類は、みずからの能力の最大値を生きられない最低値とすることによって進化発展してきた。進化しすぎると滅びる。こういうことを「進化の袋小路」といったりする。生き物は、生き延びることや進化発展など目指していない。生き延びることも進化発展も、たんなる「結果」であって、それを目指して生きているのではない。
人間は、生きられなさ、すなわち無能であることのいたたまれなさにせきたてられて生きている。そういう生きてあることの「負荷」が生き物を生かしている。
筋肉だって、負荷を与えることによって増強する。空腹という負荷をかけないと、太って腹が出てくる。腹の筋肉がなくなって脂肪ばかり増えてゆく。
生きることに負荷がかかっていないと、精子が少なくなってしまう。そういうことがあるのかもしれない。負荷がかかっていないと、ストレスに弱くなってしまい、必要以上にストレスを感じてしまう。生きてあることそれ自体、平和で豊かであることそれ自体がストレスになってしまう。生きることに有能であることそれ自体がストレスになってしまう。
人間はもともと生きられなさを生きるという傾向がとくに強い生き物なのに、現代人はその命のはたらきの源である「生きられなさ」に耐えられなくなっている。平和で豊かな世の中になった今どきはもう、短絡的な生命賛歌や衣食住に耽溺する生活者の思想が我物顔で横行している。
人間にとって「生きられなさ」は、ストレスではない。その「生きられなさ」を受け入れ、そこから心が華やいでゆく。その証拠に人間は、発狂しないまま餓死してゆくことができる。
「生きられなさ」を受け入れることができなくなって発狂する。そうして発狂しないために、死んでも魂は「天国」まで生き延びるとか「生まれ変わる」というような物語にすがってゆく。しかし日本列島にはそういう物語が定着していないから、「生き延びる」というスローガンに邁進してゆくことがストレスになってしまう。社会的に成功してまい進できる人はいいが、成功できなければそれは大きなストレスになってしまう。「天国」や「生まれ変わり」という物語にすがり切れない伝統がある。日本列島の伝統的な死のイメージは「今ここで消えてゆく」ということにある。そしてそうやって我を忘れてときめいてゆくのが生きる作法にもなっている。現代人は、その作法で生きることができなくなって、「生き延びる」というスローガンを背負わされてしまった。社会的な成功から外れてしまった人がそのスローガンを背負って生きることは、そりゃあ大きなストレスでしょう。
社会的な成功を持とうともてなかろうと、人間性の自然は「生きられなさを生きる」ことにある。そしてそれこそが生き物としての自然でもある。
細胞のはたらきは、「生きられなさ」という負荷がかかることによって活性化してゆく。筋肉は、負荷がかかることによって増強されてゆく。精子だってただの蛋白質なのだから、そういう仕組みはあるのかもしれない。平和で豊かな社会を生きれば、いろんな意味で命のはたらきに負荷がかからなくなる。


日本列島は、命のはたらきに負荷をかけてゆく文化をはぐくんできた。たとえば畳に正座することは、まさに負荷をかけている状態です。相撲や能の「すり足」もまた、身体に負荷をかけながら歩く作法でしょう。それは、危険な山道などでのどんな状況の変化にも対応できる歩き方の伝統であり、いざというときにたちまち命が活性化する(=華やぐ)ということです。縄文人の多くは山で暮らしていたし、古代・中世の街道のほとんどは山道だった。そういう歴史とともに、身体に負荷をかけてゆく文化を育ててきたわけで、それは身体だけのことではなく、生きることそれ自体に負荷をかけてゆくこと、すなわち生きにくさを受け入れ生きることによってそこから心が華やいでゆく文化だった。そこから日本的な知性や感性が生まれ育っていった。
いやそれはもう、日本的というより、人類の歴史そのものの伝統でもある。原初の人類はそうやって生きにくさを受け入れそこから心や命のはたらきが華やいでゆきながら地球の隅々まで拡散していったのだし、そのメンタリティや生態の集大成として氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が登場してきた。
どの国の文化の伝統も、人類の歴史そのものの伝統でもあるという側面を持っている。なのに戦後のこの国では、そういう側面を捨て、今や「生きにくさ」が受け入れられないメンタリティや身体作法になってきている。おそらく、そうやって現代の男たちの精液の中の精子が少なくなったり、さまざまな社会病理が生まれてきているのでしょう。
戦争で負けたことの反動でしょうか、平和で豊かな社会や生き方を追求することによって失った何かがある。平和で豊かな社会や生き方が悪いわけではもちろんないが、そうやって「生き延びる能力」を追求し称揚してゆくことの、人間として生き物としての不自然がある。この国にはそういう不自然を生きる文化の伝統がない。
戦争をすれば勝ったり負けたりする。文明社会はその歴史とともにどんどん不自然なメンタリティや生態になってきたのだが、人間性の自然は、生き延びることができる世界の調和を追求し称揚してゆくことにあるのではない。生きられなさの混沌を生きることにある。心も命のはたらきもそこから華やいでゆく。
原始人は戦争をしなかったからこそ、世界の調和も生き延びる能力も追求していなかった。生きられなさの混沌を生きていた。日本的な、危険な山道を歩く「すり足」の身体作法も、生きられなさの混沌を生きる文化であり、絶海の孤島で異民族との軋轢を知らない歴史を歩んできたから、そういう文化が生まれ育ってきた。
戦争や競争がなければ、平和や豊かさなど追求しない。人間性の自然は、生きられなさの混沌を漂泊してゆくことにある。そしてそれが、生き物の進化のかたちであり、命のはたらきの自然でもある。


 戦争はよくない、平和は尊い、などと、どうして戦争と対比して平和の価値を語りたがるのだろう。もしもこの世に戦争がなければ、平和の価値も存在しない。平和の価値は、戦時においてもっとも深く実感される。平和な世の中で平和の価値を称揚するのは、何か変です。平和な世の中であれば、平和はあることが当たり前のものであって、欲しがるものでも価値あるものでもない。戦争に比べていいというのなら、ただの相対的な価値でしかない。
 戦争と平和、というような二項対立で平和の価値を称揚してもせんないことです。文明社会に戦争や人殺しはつきものだからどうしてもそういう思考になってしまうのだろうが、平和の価値を称揚するためには戦争をしないといけない、そういうことにもなる。戦争をすることによって、より平和の価値が上がる。アメリカなんか、そうやっていまだに戦争ばかりしている。
 原始人は戦争を知らなかった。これは、あくまで仮説です。彼らが戦争をしていたという決定的な証拠も、していなかったという証拠もない。
 ただ、この国の縄文人は戦争をしていなかったというこということは歴史家のあいだでほぼ合意されていることで、だったらそれを原始人の生態までさかのぼって類推してゆくこともできなくはないはずです。
 多くの人類学者は原始時代から戦争をしていたという前提を持っているが、人がなぜ戦争をするかということの説得力のある答えをわれわれはまだ聞いたことがない。文明社会が戦争ばかりしてきたからといって、それが人類史の普遍であるかどうかはわからない。文明人はもう、戦争のない世界をイメージすることができなくなっている。そりゃあ、「平和のありがたさ」とか「生命の尊厳」とか「生き延びる」とか、そんなことばかりいっていたら、イメージできるはずがない。それらは戦争とか殺人との対比の上に成り立っている価値であり、そこでは、人間が戦争や殺人をしない存在であるという論理は成り立たない。
 文明社会には戦争や殺人が当たり前のようにあふれていて、人が人を憎むことを人間性の自然だと考えている人も多い。
 文明人を幼稚にすれば原始人になるというわけではないし、文明人は理性で人殺しを思いとどまることができるが原始人は理性が希薄だったから思いとどまることができなかったとか、そんな理屈で考えるべきではない。
 人を殺したいほどの憎しみを抱くから理性を持つことが必要になる。理性なんて、その程度のものです。そんな憎しみなど抱かない人は、理性も必要がない。理性なんか持たなくても人殺しをしない。もっと素直に無邪気に自然に生きている。
 現代人を基準にして、その未完成のかたちを原始人に当てはめて考えるべきではない。べつに現代人は人間の完成されたかたちを持っているわけではないし、大人が子供や若者たちより人間として完成しているのでもない。文明人は原始性を失いながら文明人になっていったのだし、今どきの大人たちも、子供や若者が持っている純粋で自然な人間性を失いながら大人になっている。さらにいえば、現代人は子供や若者のうちからすでに純粋で自然な人間性を失ってゆく。大人になるとはそういうことであり、そういう喪失感を持っているのを大人のたしなみというのだろうし、自分を完成された人間として、自分を基準にしながら人を裁定したがる大人ほどブサイクな存在もない。今どきの人類学の原始人観なんて、そんな低俗で思考停止した言説ばかりです。
 大人になるということは、自分はもはや人間のスタンダードたりえない、と思い定めることです。大人も現代人も、人間のスタンダードではない。
 しかしわれわれがすっかり人間のスタンダードを失ってしまったかといえば、そうではないはずです。人の無意識にそう変わりはない。昔も今も、そう変わりはない。ただ、現代の文明社会の制度的な観念が、無意識のはたらきを封じ込めるように逆立してしまっている。
 たとえば世間では「未来に対する計画性」が人間性の自然であり人間的な知能の本質だというが、われわれの無意識は、目の前の「今ここ」にときめき憑依している。そのはたらきがなければ、「生きてある」という実感など成り立たない。人の心は、「生きてある」と実感したところからはたらきはじめるのだし、そこから「未来に対する計画性」へと逸脱してゆく観念のはたらきが起きてきたりする。
 原始性とは人類のプリミティブな心模様だというなら、それは未熟な「未来に対する計画性」のことではない。たしかに現代社会は「未来に対する計画性」が成熟した社会であるのだろうが、そこに人間性の自然があるのではない。
人類の歴史は、生き延びようとする欲望によって動いてきたのではない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨が人の心や行動を活性化せて歴史を動かしてきた。そういう無意識の感慨がはたらいているから人は戦争をするのだし、その感慨から思考の飛躍が起きて文化のイノベーションをもたらしたりもする。人は普遍的にそういう無意識の感慨を持っているから、猿よりももっと豊かにときめき合う存在になってきた。
「理屈と膏薬は何にでもくっつく」のたとえ通り、観念のはたらきはどんなかたちにも成り立つ。人を殺してもかまわないという理屈(観念)だって正義になる。「未来に対する計画性」とともに生き延びようとするのが現代人の心模様の中心になっているとしても、そういう無数の観念のはたらきのひとつにすぎない。その観念ですら、人間的な「もう死んでもいい」という無意識の感慨からねじくれながら派生してきたにすぎない。まあ、そこのところがややこしいのだが。


 国家が生き延びるためには、戦争をしないといけない。であれば、憲法第九条の「戦争放棄」は、国家が滅びてもかまわない、といっていることと同じになる。それでかまわない。人は死を受け入れる。命のはたらきは、死を受け入れるというかたちで活性化してゆく。心はそこから華やぎときめいてゆく。そういう意味で憲法第九条は、命のはたらきの自然にかなっている。
 人類は「もう死んでもいい」というかたちで死を受け入れてゆく無意識の感慨とともに歴史を歩んできたのであり、それが文化のイノベーションをもたらしてきたのだし、それが日本列島の伝統的な文化にもなっている。
 日本人の歴史的な無意識が憲法第九条を成り立たせてきた。それは、戦争よりも平和のほうがいいという論理ではない。戦争のことを勘定に入れない論理であり、したがって生き延びることができる平和のことも意識していない。
 生き延びることを勘定に入れないのが人類の歴史であり、日本列島の伝統文化にもなってきた。それが「無常」ということでしょう。憲法第九条は、日本人の無常観の上に成り立っている。それが国家として生き延びるのに有効か否かというような問題ではない。そんな問題など存在しない、と思い定めて日本人はその条文を受け入れてきた。
 そしてそれは、平和のありがたさなどという問題も存在しないということでもある。戦争であろうと平和であろうと「今ここ」に生きてあるという事実があるだけで、われわれはそれを受け入れてゆく、という宣言なのでしょう。戦争も平和も何でもありだし、戦争も平和もどうでもいい、とにかく「今ここ」に生きてあるだけであり、「今ここ」に生きて「今ここ」に消えてゆく。
 人間存在は、生きてあることのいたたまれなさの上に成り立っている。それでも人の心は生きてある「今ここ」にときめき憑依している。生きてあることは「結果」であって「目的」ではない。人間存在の自然・根源に「生き延びる」という問題など存在しない。
 まあ原始人は、誰もが他者を生きさせようとしていただけであり、自分が生き延びようとするとか、生き延びるために戦争をするというような発想はしなかったわけで、その生態によって猿よりも弱い猿だったのに結果的に生き残ってきた。
 平和だろうと戦争だろうと、生き延びようとする欲望の上に立って称揚されるのであり、生き延びるためには戦争も競争もしないといけない。戦争ばかりしていた古代ギリシャから平和の祭典といわれるオリンピックが生まれてきたのも当然のことかもしれない。それはまあ、平和の祭典であると同時に、生き延びようとする欲望の上に成り立った競争の祭典でもある。
 戦争も平和もない、「今ここ」に生きてあるという事実があるだけ、「今ここ」に生きてあるのはいたたまれないことだが、それでも人は「今ここ」の世界や他者にときめき憑依しながら生きてある。「今ここ」に生きてあることのいたたまれなさを受け入れながら生きてある。だから、戦争だって貧乏だって頭が悪いことだって顔かたちがブサイクであることだって受け入れてしまう。生老病死、人はどんなネガティブなことも受け入れてしまう。死ぬことがもっともネガティブな事態であるとしても、それでもそのことを受け入れてゆく。
 憲法第九条は死を受け入れる心模様の上に成り立っているのであって、生き延びるために有効かどうかということを議論してもしょうがない。戦争も平和も案の外、生きてあるのはいたたまれないことだ、しかし心はそこから華やいでゆく。


 生きてあることはいたたまれないことであり、べつに死んでしまってもかまないのだが、それでも生きてあるのならその事実は受け入れるしかない。心はすでに世界や他者にときめき憑依している。
 誰だって「もう死んでもいい」という無意識の感慨から生きはじめている。心はそこから華やいでゆく。その華やぎが文明社会の生き延びようとする欲望に発展してきたのだが、その欲望によって「もう死んでもいい」という無意識の感慨が封じ込められ、華やぎが希薄になってゆくという事態も招いている。その欲望だけが独り歩きしていってしまうと、人間的な知性や感性が停滞してゆく。今どきは、停滞してもホリエモン勝間和代みたいになれれば結構だと思っている人も多いのだろうが、なりたいと願ってなれなければ心を病んでゆくのも仕方のないこと、どちらに転んでも彼らの心は停滞している。どちらも、生きることに有能であらねばならないという強迫観念とともにある。その強迫観念が、人間的な知性や感性のはたらきを停滞させてしまう。
 生き延びるという問題など存在しない。生き延びる能力が、人の心を停滞させる。人類は、生きることに四苦八苦しながら人間的な知性や感性をはぐくんできた。生き延びる能力に対する信仰が、現代社会を病んだものにしている。その心の停滞は、社会の上層部から下層のものたちまであまねく蔓延している。だからわれわれは「人間嫌い」になってしまうのだが、それでも生きてあれば、「今ここ」の目の前の世界や他者にときめきながら生きてしまっている。生きることには目の前の「今ここ」があるだけだから、この世にどんなにたくさんの嫌な人間がいてもかまわないし、過去や未来にどんなにたくさんのいやなことがあってもかまわない。心は、目の前の「今ここ」にときめき、目の前の「今ここ」に消えてゆく。その果てしない繰り返しでわれわれは生きている。そこに人間性の自然がある。
 ネアンデルタール人が原始人には生きられるはずのない氷河期の極北の地で生き残ってきたのは、目の前の「今ここ」しか勘定に入れない生き方をしていたからでしょう。もっと住みよいよその土地のことなんか勘定に入れなかった。つまりそういう土地に移住してゆく未来のことなんか考えなかった。「もう死んでもいい」という無意識の感慨が彼らを生かしていたし、その感慨が、彼らの、目の前の「今ここ」の世界や他者に対するときめきを豊かにしていった。
 人類は、歴史とともに、どんどん目の前の「今ここ」に対する反応が豊かになっていった。べつに生き延びようとする「未来に対する計画性」で文化の進化発展を生み出してきたのではない。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに心が華やぎときめいていったからです。
 ネアンデルタール人の祖先が氷河期の極北の地まで拡散していったように、人類は生きることの不可能性を生きる歴史を歩んできた。そこから人間的な知性や感性が花開いていった。
 おそらく、そのころ世界でもっとも生きることに無能であるほかない環境のもとで生きていたネアンデルタール人こそ、もっとも人間的な知性や感性が進化発展していた。
 ホリエモン勝間和代がどんなに生き延びる能力を自慢して多くの人をうらやましがらせても、その知性や感性などたかが知れていることは誰でも気づいていることじゃないですか。生き延びようとする欲望とともにある「未来に対する計画性」で人類文化の起源の契機や知能の本質を語ろうなんて、ほんとにくだらない。


10

 憲法第九条を生き延びるために有効か否かと議論してもせんないことです。
 人類は生き延びなくてもいいし、それでも「今ここ」に生きてある。「今ここ」に生きて目の前の世界や他者にときめいている。人は「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに「今ここ」に生きてある自分を忘れて「今ここ」の他者を生かそうとしてゆく存在である……われわれは人間存在のそういう自然を信じることができるか。憲法第九条によってわれわれはそういうことを試されている。戦争に負けて、そういうかたちで人類の生贄にされた。そうして生贄であることを受け入れて、戦後の70年を歩んできた。
 戦後のこの国は、世界中に向かってひざまずいていった。べつに中国や朝鮮に対してだけではない。そうやってひとまず生き延びようとする欲望を捨てた。それが、この国なりの戦争で死んでいったものたちへの弔いだった。戦闘員であれ非戦闘員であれ、敵であれ味方であれ、あまりにも多くの人間が死んでいった戦争だった。生き残ったものたちも、これ以上生き延びることが許されているとは思えなかった。「もう死んでもいい」と思いながら生きはじめた。そうやってアメリカ占領軍の支配に従順に従い憲法第九条を受け入れたし、中国や朝鮮の理不尽で強硬な非難にも反論しなかった。そして、そういう、この世界の生贄になって自分を捧げようとするような日本人全体のなんとなくの気分に乗って左翼思想が台頭してきた。その思想は、近ごろでは「自虐史観」などといって否定されたりもしているが、そのころの日本人にはもう、むやみに生き延びようとして自分を正当化することに対するどうしようもないうしろめたさや恥ずかしさがあった。この国が侵略したかということ以前に、すべてを清算したかった。
 戦後日本は、自分たちが生き延びようとすることよりも、何はさておいても死者に対する供養をする必要があった。それほどにたくさんの人が死んでいった戦争だったし、生き残ったものたちにも生き残ってあることに対するうしろめたさや戸惑いやはにかみがあった。そうして誰もが「今ここ」の娯楽に熱中していった。衣食住に使う金を削ってでも娼婦を買おうとする男たちはたくさんいたし、あんなにも衣食住に不自由していた時代だというのに、まずは歌謡曲をはじめとする娯楽産業が華やいでいった。
 戦後左翼の「自虐史観」が真実だとも思わないが、たぶん、人類の生贄になろうとする気分がなければ憲法第九条を存続させることはできないのでしょう。
 人の心は、「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに華やぎときめいてゆく。まあ日本列島のそういう伝統的なメンタリティが、戦後日本の復興のダイナミズムをもたらした。そうしてその心模様が生き延びようとする高度経済成長の欲望に変質してゆくとともに、さまざまな社会病理があらわれてきた。
平和で豊かな世の中で幸せ自慢をして生きてきた人々が、なぜ何かのはずみで鬱病になったりボケ老人になったりしてしまうのか。今どきの中高年はセックスの欲望が満々なのに、なぜスムーズに勃起できなくなってしまっている人が多いのか。子供や若者たちはなぜ発達障害という停滞に迷い込んでしまうのか。
 衣食住に満たされている時代であるがゆえに、生き延びるための衣食住のあれこれに意識の焦点が散乱し、心が停滞してしまっている。「もう死んでもいい」という無意識の感慨とともに衣食住の外の一点に意識の焦点を結んで心が華やいでゆくということをしなくなってきた。生き延びようと生命賛歌ばかりして、人類史の伝統というか人間性の自然であるところの、死に対する親密さから心が華やいでゆくというタッチを失いかけている。
 衣食住という日常に耽溺するばかりで、非日常に向かって飛躍してゆくタッチを失いかけている。男のペニスはそうやって勃起するのだし、人類史の文化のイノベーションは、生き延びるための計画性によってではなく、非日常に向かう飛躍として起きてきたはずです。
 戦後のこの国は、生き延びるための計画性を持ったことによって、目の前の「今ここ」にときめき華やいでゆく人間的な知性や感性が停滞してきた。
 人類の知能や生きものの本能を、生き延びるための「未来に対する計画性(予測性)」という問題設定で語るべきではない。そんな心模様など、今どきの大人たちのたんなる俗物根性にすぎない。
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