古事記の世界観Ⅲ

まわりの景色が世界として完結しているということ、それが古代の人々が奈良盆地に住み着いてゆく契機だったのだろうと思えます。
やまとは くにのまほろ
畳(たた)なずく 青垣 山ごもれる
やまとし うるわし       
これは、「景行記」の中で、ヤマトタケルが詠った歌です。
もうひとつ、「日本書紀」の中で、東征を決意した神武天皇は、「東のほうに、美(よ)き地(くに)あり。青山、四方(よも)に周(めぐ)れり」と語っています。
古代人にとっては、山に囲まれていることこそ、理想郷であることのもっとも大きなというか、絶対的な条件だった。食い物がたくさんとれるとか、そんなことじゃない。
縄文時代は、ほとんど山の中というような狭い場所で、しっかりその感慨を抱くことができたが、いつも山野を歩き回っていれば、もっと遠くに山がある景色でないと、「世界として完結している」という感慨が生まれにくくなってくる。縄文時代には遠すぎて心もとなかった景色が、かえってちょうどよくなってくる。
それが、奈良盆地の景色だった。また、ここが世界のすべてだ、という感慨を持とうとする自意識も強くなってきたのかもしれない。つまり、時代が進んで、それだけ「食う=経済」の問題が解決されてきていた、ということです。
奈良盆地に住んで、人々の自意識は、ますますこの生や世界の完結性を問わずにいられなくなってきた。
広い平地がある奈良盆地は、農耕生活が進み、当時の日本列島でもっとも「食う=経済」の問題が解決されていた。古代において、水田耕作がもっとも進んでいたのは、奈良盆地とその周辺だったらしい。それは、彼らが沼地とともに暮らしていたからであり、稲作をしなければもう人々の食糧をまかなえないくらい人口が増えていたからでもある。
彼らは、稲作によって、すでに食う=経済の問題を解決していた。つまり、餓えるという心配から解放されていた。が、それでも生きものは死ななければならない。餓える心配から解放されていたからこそ、死ななければならない身であることが、なお強く意識されるようになってくる。
また、四方をたおやかな姿の山に囲まれて「ここが世界のすべてだ」という感慨を抱かせる地でもあったということは、それだけそういう自意識が育ってゆく場所だった、ということを意味している。
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神話は、「食う=経済」のために必要な話ではない。人はかならず死んでいく生きものであるという与件と和解するためにつくられる。そのような和解しようとする自意識、この生をまるごと納得しようとする自意識が、奈良盆地に住み着いた人々の中でどんどんふくらんでいって「古事記」という話が生まれてきた。
そしてそれが、とんでもなく荒唐無稽であるということは、荒唐無稽であることこそが「世界の果て」であることの証しだったからです。それだけ彼らの意識が原始的であったからではない。そういうかたちでこの世界を完結したものとして認識し、死なねばならないこの生と和解しようとする心が切実だったからだ。
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もしかしたらその物語がかくも荒唐無稽になっていった契機は、仏教の伝来による人々の意識の混乱があるのかもしれない。縄文以来の黄泉の国の死生観から、新しい極楽浄土の死生観へ・・・・・・古事記が編纂されていった時代は、ちょうどその過渡期だった。というか、これ以後日本列島は、つねにこの二つの死生観のあいだを揺れ動いてきたともいえる。
海に閉じ込められた日本列島の住民は、世界の果てからやってきた旅人を、まれびととして迎え入れる。そのようにして、仏教も受け入れた。彼らにとって仏教は、別の世界のものではなかった。あくまでこの世界の果ての文化として受け入れた。しかしそこで起きた混乱が、なおいっそうさすらう気持をかき立て、古事記の物語をかくも高度な文学性へとみちびいていったのかもしれない。彼らは仏教をすすんで受け入れたが、その死生観はあまりにも異質だった。
仏教が説く極楽浄土はあくまでこの世ならぬ異世界であるが、古事記の物語は、ひたすらこの世界の果てを語っている。この違いは、けっして小さくはない、死と生ほども違う。明治時代の西洋文化との出会いにしろ、この国では、根源的に異質な死生観ですらまるごと受け入れてしまうから、そこでおおいに混乱し、生にたいする認識が極端に軽いものになってしまう。そうやって第二次大戦の侵略戦争や「神風」の狂気が生まれていったのだろうし、中世における「無常観」や果てしない内乱の時代もまた、同じ構造の帰結なのではないかと思えます。
この国では、「別の世界」などというものはない。だから、この世かあの世か、どちらかだけになってしまう。大陸の「あの世」という意識を受け入れてしまえば、「この世」にたいする意識がどんどん希薄になってゆく。
これは、厄介な問題です。かんたんに言って済ませてしまうことのできる問題ではない。ともあれ、古事記におけるあの荒唐無稽な内容と高い文学性は、そういう過渡期における混乱にともなうゆり戻しの意識から生まれてきたのだろう思えます。
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日本列島に暮らす人間は、どんな小さな世界であっても「これがすべてだ」と認識してゆく傾向がある。そうやって、異質な大陸文化でさえもまるごと受け入れてしまう。海に閉じ込められた日本列島の人間は、世界の果てには行けないがゆえに、世界の果てのことを疑うことができない。大陸文化はまったく異質であるが、異質であるがゆえに、なお、これが世界の果てだ、これが世界のすべてだ、と納得してしまう。
世界の果てを見ている視線、それが日本的な漂泊の心性です。死の予感とともにある心性、というのでしょうか。われわれにとって「死=世界の果て」は、予感でしかない。しかし、世界の果てからきた者(大陸人)から「死=世界の果て」とはこんなものだ、と示されたら、「ああ、そうか」と納得してしまう。
おそらくそのころの奈良盆地の人々は、新しい仏教的死生観と縄文以来の古事記的死生観、この二つのあいだを大きく揺れ動いていたのだろうと思えます。