天孫降臨と神武東征Ⅲ

古事記が編纂される2、3百年前には、奈良盆地だけでもまだ集落ごとにたくさんの神話があったらしい。それはつまり、日本列島のいろんなところからやってきた人たちが住んでいた、ということを意味する。そうして、それらが、だんだんひとつの神話に収斂してゆき、「古事記」になった。
それぞれ神話が語り継がれていたということは、彼らは「家系図」などというものは持たなかったということであり、誰も自分たちの祖先がどこからやってきたか知らなかった。知らなかったから、神話が生まれてきたのでしょう。知っていたら、事実のような語り方をするはずです。
古事記が編纂された時点から神武東征のあいだは、約千年の隔たりがあります。文字による文献ではなく、ただの語り伝えが千年たてば、まったく別の話になってしまうでしょう。それは、千年前から語り伝えられたのではなく、おそらく平地に定住することが定着した百年か二百年前あたりから、自分たちの出自にまつわる話を共有していたいという衝動が起きてきた、ということでしょう。
古事記の千年前といえば、やっと弥生時代がはじまったばかりのころです。そのころに、「戦い」だの「国を治める」だのということを、していたはずがない。
だいたい山野をさすらっていた縄文人に、「どこ」という出発地点などないわけで、さすらっているかぎりそれでよかったが、定住すれば、出自の地を知りたいという願いも切なるものになってくる。
彼らは、自分たちがどこから来たのか知らなかったし、知らないから、どこだってよかった。そして、彼らの心情にもっともぴったりくる地が、九州の日向だった。古事記を語り伝えた人々は、そこから来たのではなく、そこを出自の地として選んだのだ。問題は、なぜそこを選んだのか、ということにあるのであって、そこから来たのか否か、ということにあるのではない。
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ブラジルの首都であるブラジリアは人為的につくられた都市であるが、それでも、もとの首都であるリオデジャネイロの住民がそのままごっそり移ってきたのではない。ブラジル中から人が集まってきて、何とか都市のかたちになっていった。リオの住民はリオを愛していたし、ほとんどがそこに残った。
人間は、住み着こうとする生きものです。いつだって、住み着きたくても住み着けない余剰人員がそこから吐き出されるだけです。アメリカ建国だろうとオーストラリアだろうと、それは同じでしょう。
古代において、奈良盆地を埋め尽くして日本列島最大の共同体になるほどの余剰人員を抱えた地域が、いったいどこにあったというのか。それとも、最初は少数だけだったが、奈良盆地に住み着いた人たちはとくべつ繁殖力が旺盛で、あっという間に列島一の人口を抱えるようになったとでもいうのか。
古代の奈良盆地にたくさんの人がいたということは、自然に、長い時間かけて、あちこちから人がやってきてそこに住み着いていった、ということ以外のいったいどんな理由が考えられるというのか。それが「自然の理(ことわり)」というものでしょう。
ひとつの地域からごっそり人が移住してきて住み着いたなんて、どうしてそんな空々しいことを当然のようにして信じることができるのか。歴史は、ただのパズルゲームじゃない。人間の歴史は、人間という生きものの生態を記したものであるはずです。
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天孫降臨の話は、日向という場所があるということを聞いた奈良盆地の人たちが、いつの間にかそういう物語をみんなしてつくりあげていった、ということだろうと思えます。
日が向かう、と書いて日向という。そういう地名じたい、奈良盆地の人たちがつけたのでしょう。ほんとうに彼らがそこからやってきたのなら、もとの名で呼んでいたはずです。
旅人の話を聞いただけの人たちは、実際に行ったことも住んだこともないだけに、かえっていろいろ想像力がふくらむ。だからもう、縦横無尽に話を脚色してゆくことができる。
おそらく歴史的な事実としては、縄文時代以来、列島中の山野をさすらう旅人が奈良盆地に集まってきた、ということがあるだけでしょう。
山の民ほど空を身近に感じている人たちもない。たとえば、まわりがぜんぶ水平線という海の真っ只中で感じる天球のスケールと、山に囲まれたところで感じるそれとでは、そうとうちがう。山での太陽は、すぐ前の山から姿をあらわして、すぐ背後に消えてゆく。もう太陽とかくれんぼしているようなものです。
男の子を「ヒコ(日子)」と呼び、女の子を「ヒメ(日女)」と呼ぶ伝統は、おそらく山野をさまよっていた縄文時代以来のものであろうと思えます。人々の無意識におけるそういう「天」との近さが天孫降臨の物語をつくらせたのでしょう。
人は、海辺に立てば、水平線との関係において世界を感じ、神と語り合う。それにたいして山に囲まれたところでは、頭上の空との関係が親密になる。古事記における原初の神の世界は、日本列島の真上にあったのであって、海の向こうではなかったのです。これは、海の民ではなく、山の民の発想であるはずです。山に囲まれた場所では、空しか神がやってくるとイメージできるところはなかった。
そうして奈良盆地の人々は、日の光によって、長い長い年月をかけて奈良盆地の沼地がしだいに干上がってゆくのを見続けてきた。彼らが「アマテラス」という太陽神を信仰していった契機は、そんなところにもあったのかもしれない。
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奈良盆地の人々にとって、九州は、世界の果て、であり、太陽が帰ってゆく場所です。神々が降り立つとしたら、当然そのあたりだろうと思う。疑問をさしはさむ余地なんかない。そうして、われわれの祖先は、きっとそのあたりからやってきたのだ、と誰もが納得していった。
彼らにとって、世界の果ては、聖地だった。彼らがなぜ、もっとも重要な神であるアマテラスを祀る神社を、奈良盆地にではなく伊勢に置いたか。そこが、彼らにとって、世界の果ての日が昇る場所だったからです。
逆に九州の日向は、日が沈む西の果てにある。その先は夜の闇であり、黄泉の国である。神々はその狭間にいて、夜の闇と昼間の明るさをつかさどっている。そして、この生と死をつかさどっている。
古事記を語り継いできた奈良盆地の人たちが、みずからの出自を日向の地に置いたとしても、かならずしもそこからやって来たとはいえない。
ただ彼らが、祖先から受け継いできた無意識の記憶として、われわれは、さすらいの果てにこの「まほろば」の地にたどり着いたのだという自覚が、どこかしらにいつもあったのでしょう。じっさいにどの方角から来たかなど、わかるはずもない。ただもう、いちばん深く信じ込めるところがその場所だった。
いや、「われわれはどこから来てどこへ行くのか」という問いは、人類共通の普遍的な死生観であるのかもしれない。ただ、日本列島においては、「どこに行くのか」という問いはない。死んだらわけのわからない黄泉の国に行くだけだ。それは、わかりきっていることであると同時に、わからないとあきらめてしまっていることでもあった。したがって彼らがひたすら知りたいと願ったことは、「どこから来たのか」ということであった。それは、根源的な、記憶(=歴史)の向こうがわの知りえないことを知りたいと願ったのであって、史実がどうとかというような通俗的なことではない。もっと形而上的なことだったのだ。
基本的には、日が昇る東に向かうのが旅人の習性です。彼らの体に残っているその習性が、神武東征の話を生み、西の果ての日向を出自の地として選択させたのではないでしょうか。