閑話休題・いまどきの人生論

ときどき、このブログで自分は、どうしようもなく安っぽいことばかり書き散らしているだけかな、と不安になります。不安も何も、そのとおりだ、ということかもしれません。
で、ちょっと気分転換です。
ひろさちや、という人の人生論みたいな本は、わかりやすくてしかもラディカル(本質的)で、とてもよく売れているそうです。そこで僕も、「『狂い』のすすめ」という本を、なんとなく、どんなもんかな、と思って、読んでみました。
なるほど、悩める若い人にはうってつけの本かもしれない。
仏教の研究者という教養の裏づけがあるから、それが説得力になっている。
口語体の平明な語り口なのだが、それでも読者は、何やら高邁で深い人生の真理と出会った気分になれる。
しかも、ラディカル(本質的)で反社会的なのだ。清潔な論理だと思う。
人生の意味などない、生きがいなんかいらない、ただ狂って遊びたおして生きればいいだけです、という。間違っているのは世の中のほうなんだから、落ちこぼれて生きればいいだけなのです、と。
なるほど、そのとおりだ、と思う。ひねくれ者でひとこと言いたいタイプの僕だって、反論の余地はない。悩める若い人なら、そう言われて、きっと救われたような気分になるのでしょうね。
著者に、迷いはない。自分の言うことにも、自分の生き方も、間違っていないという自信がある。
「こう生きればいいだけです。面倒なことなど何もない」
それを語る本人に迷いがないこと、これが人を説得するときのいちばんのものだろうし、迷える読者は、そう言ってもらいたがっている。
だから、言ってあげなければいけない、ということでしょうか。
売れる本というのは、こうでなければいけない。
養老孟先生の売れた本も、読者層が違うだけで、まあこういう語り口です。
・・・・・・・・・・
ただねえ、読んでいて、ちょっとづつ不愉快になってくるものがあるのですよ。
やっぱり僕は、ひねくれているから、ずいぶんかんたんに言ってくれるじゃないの、というつっこみを入れたくなってしまう。
人に「こう生きればいいんだよ」と言い放つなんて、考えてみたら、ちょっと怖いですよ。
そう言われたからといって、誰もがその通りに生きられるとはかぎらない。たぶん、生きられない人のほうが多いでしょう。いや、そうやって生きているつもりになれるのだから、それでいいのだ、ということでしょうか。
いやいや、「こう生きればいいんだよ」と言うことは、自分の言ったことで人の生き方が変わってしまう、ということです。怖いですよ。
人をみちびく、といえば聞こえはいいけど、それって、人を支配することなんじゃないのかなあ。
なんか、他人を見くびっているような言い方だなあ、と僕なんかは思ってしまう。そういう言い方を平気でできるなんて、その人の精神だってけっこう病んでいるのかもしれない、と思えてくる。
病んでいたっていいんですけどね、その人の勝手なのだから。僕に言えることはただ「俺は、あなたを信用しないし、尊敬もしないよ」ということだけです。
それに、自分の人生は間違っていなかった、というその思い込みも、人種が違うんだなあ、と思うほかない。
僕はたぶん、どんないい生き方をしても、そんなふうには思えないような気がする。というか、思いたくない。
その人だって、命に価値なんかない、生き甲斐も必要ない、と言っているわけで、その論理を延長すれば、間違っていない人生なんかない、こう生きればいいというような生き方なんかない、ということになる。
つまり、そんなふうに思えるということは、個人としてのその人ではなく、その人に仏教などの知識があって、そういう知識、すなわち仏教が保証してくれていると思うからです。仏教を背負っているからそんなえらそうなことが言えるのであって、背負っているものなんか何もない裸一環の自分になったら、こう生きればいいというような判断なんか成り立たなくなってしまう。自分の人生が間違っていなかったなんて、思いようがない。
その人は、「孤独を生きなさい」と言うのだけれど、こう生きればいいとか自分の人生が間違っていなかったとか、あなたはいつもそうやってじぶんのいい生き方と他人のよくない生き方とを比べているじゃないの、それは、孤独な人間の思考とは言えないよ、と僕なんかは思ってしまう。いい生き方なんか、よくない生き方を設定しなければ成り立たないことでしょう「よくない生きかた」をしたこともないくせに、よくもまあ「よくない生き方」だと思えるものだ。
泥棒の生き方だろうと人殺しだろうと、よくないのかどうか、僕にはわからない。自分の人生じゃないんだもの。僕の「自分」と、その人たちの「自分」とは違う。だから、ああ世の中にはそういう人もいるのか、と驚くばかりです。
僕は、自分の人生なんかひどいもんだと思っているし、どうがんばったって、そんなことは「わからない」というところまでしかたどり着けない。
そりゃあ僕だって、たとえば、他人のブログを見て「くだらないなあ、ていど低いなあ」と思うことはいくらでもありますよ。ただ、それは、自分のブログの免罪符にはならない。他人のブログをくだらないと思う自分が、自分のブログを見れば、やっぱりくだらないし、なまじ舞台裏を全部知っているから、なおくだらないと思ってしまう。
ひろさちや氏のその本は、「もっと安らかに生きましょう」というような言葉で最後を結んでいるのだが、「もっと安らかに」なることがいいことかどうか、僕にはわからない。人間は、安らかに生きたいと願わずにいられないほど、苦しみ嘆きつつ生きている存在である、ということ。まあ、そのへんの構造を知りたいとは思うが、「もっと安らか」であろうとあるまいと、どう生きればいいかというようなこととはあまりかかずりあいたくない。
どう生きようと、すべての人間が「許されている」と思うし、どう生きようと、自分以外の何ものになれるわけでもない。
ドストエフスキーの小説で、えらい大司教と語り合った主人公が、最後に胸の中で「心理学者め」とつぶやくシーンがあるのだが、僕だってひろさちや氏に対しては、「俗物め」と言いたくなる気分を抑えられない。
「人間には未来のことはわかりません」などとかっこつけたことを言いながら、「どう生きればいいか」というような未来のことを得々と語っている、その俗物根性はいったいなんなのだ、と。
・・・・・・・・・
ひろさちや氏は、こう言いたいらしい。私は、お釈迦様の教えを紹介しているだけなのだ、と。
冗談じゃない。お釈迦様でもないやつが、お釈迦様のことがわかったようなこと言うなよ。お釈迦様を背負って、自分のことを言っているだけじゃないか。お釈迦様のことがわかって、お釈迦様に許されているつもりでいるその傲慢さが、気に食わない。たとえひろさちや氏にはそんなつもりがないとしても、僕の中の自分は、ひろさちや氏のことを、どうしようもなくそう思ってしまう。
もしも人間が、彼のいうように「孤独」な存在であるのなら、僕のこの思いを変えてしまう権利は、誰にもない。
すべての人間が許されていることは、それはもうしんそこそう思うのだけれど、それでも自分が許されているとはどうしても思えない。人間という存在の、いったいこの構造はなんなのだと、僕はもう、うんざりしてわけがわからなくなってしまう。