天皇の祖先

日本列島における漂泊の心性は、世界の果てにたどり着いたことを自覚しつつ、世界の中心に置き去りにされてあることに絶望する・・・そういうパラドックスとしてはたらいている。古事記は、そのパラドックスからの命がけの飛躍として、世界の果てでも中心でもある神を語る「神話」からはじまる。
そしてその後、天皇家の話になってゆくのだが、奈良盆地の庶民がなぜそんな遠い権力者のことを熱心に語り継いでいったのか。
それは、彼らにとって天皇が、けっして自分たちと無縁の雲上人ではなかったからでしょう。自分たちと同じ一族だと思っていた。彼らにとって天皇は、けっして遠い権力者ではなかった。自分たちと一緒にこの奈良盆地にやってきた人だ、と思っていた。天皇家は自分たちのすべて(果て)であると同時に、中心でもある。
天皇は、途中から奈良盆地を支配しに来た九州や出雲の人でもなければ、大陸から攻めてきた騎馬民族でもなかった。あくまで、むかしから奈良盆地に住んで庶民と運命をともにしてきた一族であり、家族だった。
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天皇の祖先は、いつからか奈良盆地に住み着いた人たちの、その原始的な集落が大きくなってゆくとき、「俺、リーダーやりたい」と手を上げた人か、あるいは、呪術的な能力が際立っていて、みんなに担ぎ上げられた女性。
おそらく、前者は大陸的なリーダーの発生で、日本列島は後者のかたちだったのでしょう。そうして、そのリーダーとして能力というか存在感がなかなかのもので、順調に集落は規模を大きくしていった。
で、いつか、リーダーは世襲制になっていった。
人々は、つねにリーダーの産む子供を注目していた。それが世襲制になっていったということは、リーダーが女だった、ということを意味するのかもしれない。そうして人々は、その子供を次のリーダーに指名した。リーダーの子供だから、そういう能力はきっとあるはずだと判断し、勝手にそういう「カリスマ性」を感じてしまうようになっていった。
しかし、リーダーにされてしまった当人は、たまったものではない。アマテラスが天岩戸に隠れてしまった話が生まれてきたのも、「もう、いやだ」と投げ出す女王が、よくいたからでしょうか。
ひとまずそのようにして、天皇家がつくられていった。
そのころ、天皇家奈良盆地の庶民とのあいだには、それくらいの親しみと長い付き合いがあったのではないでしょうか。でなければ、天皇家のことを、民間伝承として語り継ぐはずがない。
古事記における天皇家の歴史は、奈良盆地の庶民の歴史でもあった。奈良盆地の人たちにとっての天皇は、「世界の果てであると同時に中心でもある存在」であり、自分たちの歴史は天皇家の歴史に極まるのだと、と深く納得していた。おそらく、そのように納得することが、日本列島に閉じ込められてあることの「嘆き」をひとつのカタルシスに変えてゆく方法だった。
われわれのこの世界もこの生も、天皇において完結しているのだ、という認識。奈良盆地の人たちにとっての天皇が、もし「よそ者」のたんなる支配者なら、そんな認識はぜったい生まれてこないはずです。
天皇は、支配する能力を持たない支配者である。すなわち、民衆の、支配されようとする意識によって支配者たり得ていた。天皇は、神として民衆の前にあらわれたのではない。民衆が、神としてまつり上げた存在にほかならない。なぜならこの国の神は、人間であらねばならなかったからだ。この世界の向こうがわの存在ではなく、あくまでこの世界の「果て」としての人間であらねばならなかった。天皇家の歴史は、いつからか奈良盆地に人が集まってきて、いつの間にかみんなに慕われる女王的な存在が生まれてきたところから始まっている。
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縄文時代から弥生時代に移る時点で、定住して暮らすことは、女のほうが何かにつけてよく心得ていたはずです。それまで山野をさすらって生きてきた男たちは、一ヶ所にじっとしていることの落ち着かなさをいつも抱えていた。そのとき彼らに必要なリーダーとは、共同生活の実務的なプランを立てて遂行してゆく能力を持った者というより、まず、そのようにともすれば情緒不安定になりがちになる心を癒して落ち着かせてくれる存在だったのではないか。
であればもう、女しかリーダーがつとまる者はいない。男たちのアイドルというかマドンナ、まあそんな存在だったのでしょう。男たちは、住み着くために、そういう存在を必要とした。別に何をしてくれというのではない、いてくれればいい存在、いつの間にか男たちに慕われていた女性、それが、奈良盆地におけるもっとも初期段階のリーダーであり天皇だったのかもしれない。
奈良盆地においては、支配者があらわれたのでもやってきたのでもない。人々が、そういう存在を必要とし、望んだのだ。そしてそれは、共同生活をうまくするためではない。おそらく、定住するために、でしょう。山野をさすらうことを捨てて平地に定住してゆくことの困惑と不安、それが、奈良盆地における弥生時代五百年の歴史だったのではないでしょうか。
そういうことを考えてゆくと、天皇と民衆の関係は、姉と弟のような関係だったのだろう、という気がします。母でも恋人でもない、「姉」という存在、ここがみそです。それは、アイドル的マドンナ的であると同時に、男がいたわってやるべき恋人のような存在とも違う。あくまで男たちがいたわってもらえるアイドルでありマドンナでもある存在、それはもう、「姉」しかいない。
思春期という第二反抗期を迎えた少年にとって、町内で噂の美人のお姉さんは、初恋というのとはちょっと違うのだけれど、とても気になり、道で会えばどきどきしてしまうものです。そういう意識の延長ですね。
男のような不安定な生きものが「姉」を慕う気持は、おそらく人類共通のものでしょう。しかし、世界中の例を見ても、この国の天皇ほど「姉」という性格を色濃く持っている支配者(王)はいないのではないかと思えます。だから長く続いたのだし、江戸時代までの天皇は、男でもお歯黒をして女官に囲まれながら暮らしていたのだとか。
この国の人々は、姉を思うようにして、天皇を慕っている。
以前、社会党土井たか子氏がカリスマ的な人気を博したことがあったが、これもまた、姉のような存在を求める国民の無意識がはたらいていたのだろうと思えます。
おそらく卑弥呼にしても、呪術者であると同時に、住民の「姉」としても機能していたのでしょう。皇祖神であるアマテラスは、奈良盆地で暮らす男たちの不安と狂気を象徴するような存在であるスサノオの姉であった。古事記では、姉や、姉のような存在であるおば(母の妹)に重きをおいて語られている話は多い。神武天皇の父親は、母の妹であるタマヨリヒメと結婚した。ヤマトタケルは、東征の前におばであるヤマトヒメを訪ね、身の不幸を嘆いて泣いている。日本人における「姉」という性にたいする憧憬は、ことのほか深い。
だから、「愛子天皇」でもいいのだろうし、きっとすごい人気になるだろうという気がします。