いざなう存在としての天皇

縄文時代から弥生時代に移るとき、土器の形や模様が劇的に変わった。多少は大陸の影響もあるだろうが、それよりももっと、作者が女から男に代わった、ということがいちばん大きいのだろうと思えます。
弥生時代初期にどれほどの数の大陸人がやってきていたか。ほとんどいなかったはずです。そんなにかんたんにやってこられるなら、そのときすでに大陸に支配される国になっていたはずです。コロンブスをはじめとする16世紀のヨーロッパ人のようなことを、紀元前の中国人や朝鮮人が平気でやっていたはずがない。
その土器の形や模様は、大陸の影響受けて変わったのではなく、変わってから大陸の影響を受けながら洗練されていったのでしょう。大陸の影響を受けたからではなく、男も定住するというかたちで人々の暮らしが変わってきたからでしょう。稲作の伝播のことにしろ、研究者は、なんでもかんでもすぐ大陸の影響でかたづけてしまう。考えることが、安直すぎます。
それはまず、形や模様が、女のセンスから、男のセンスに変わっていった。それまでの情念の躍動を表現するような縄目文様から、細い線を刻むような、やや観念的で繊細な幾何学模様が多くなっていった。つまり、気持を湧き立たせるような模様から、気持をしずめて落ち着かせるような模様に変わっていったわけです。
それは、男の手による、男のための模様だった。縄文の女たちが男を待つ身の物狂おしさを土器によって表現していたとしたら、弥生時代に入って定住に参加していった男たちは、おそらくそれによって不安や落ち着かない気持をしずめようとした。縄文時代は女たちに土器を作ろうとする意欲と必要があったが、弥生時代になって、定住に参加した男がその仕事に熱中していった。体力のある男が参加すれば、もっと大きな窯をつくれるし、燃料も潤沢に用意することができる。それで、質的にも一気に向上した。
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稲作とともに平地に定住していった弥生時代に入り、とくに生活が変わってとまどっていたのは、女よりも、それまで山野をさすらっていた男のほうでしょう。
だから、そのとき女たちは、男をなだめ、落ち着かせる役目を持った。
この国で、控えめでおとなしい大和なでしこのイメージが歴史的に定着していったのは、定住の不安を抱える弥生時代の男にはそういう女性が好まれた、というところから始まっているのかもしれない。男がたえず不安で苛立っていれば、女はもう、そういう態度をとらざるをえない。たぶん、縄文の女は、男にたいしてもっと挑戦的だったにちがいない。むしろ、男が女をなだめていたのかもしれない。
つまりそういう歴史的ないきさつがあり、弥生時代になって女がすぐ男をなだめる存在になりきれるかといえば、そうもいきがたい。そこで、男たちをなだめてくれる絶対的な存在として天皇がまつり上げられていった、ということもあるのかもしれない。
また「恥じらい」という日本的価値観も、それまで男と女が一緒に暮らすという歴史を歩んでこなかったから、男も女もそのころからとまどったり恥らったりする感情を持つようになってきたのかもしれない。日本列島の歴史を一万年とすれば、われわれは、そのうちのまだ2千年しかそうした暮らしを経験していないのです。
考えてみたら、人類数百万年の歴史で、男と女が別々に暮らすという社会など、日本列島の縄文時代8千年だけのことかもしれない。
良くも悪くも「恥じらいの文化」は、外国人には不思議なところがあるらしい。
弥生時代の女たちは、男と一緒に暮らすことに恥らっていたし、男たちは定住することに戸惑っていた。つまり、誰もが平地での新しい暮らしをしてゆくにあたって何かしらの不安を抱えており、その心のよりどころになってくれるような象徴的な存在としてのリーダーを求めていた。
それが、「天皇」だった。
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自分たち生活を指図したり面倒を見たりしてくれるリーダーではなく、あくまで心のよりどころになってくれる象徴的な存在を、弥生時代の人々は、かなり早い段階から求めていたのでしょう。権力者は、大きな群れ社会ができてから生まれてくる。しかし、心のよりどころとしてのそうした存在は、そうなる前の定住してゆくという段階ですでに求められていたにちがいない。そしてそこが、奈良盆地天皇と、一般的な地方の豪族との違いなのだろうと思えます。
天皇は、群れが大きくなってから生まれてきたのではない。群れを大きくしてゆくために必要な存在だったのです。だから、住民の慕う気持が、天皇と豪族では、天と地ほども違う。
奈良盆地だって、初期の段階では、天皇のほかにも地域ごとの豪族はいたはずです。しかし住民は誰もが天皇を慕っていたし、豪族にしても、天皇をまつり上げなければ権力を振るえない状況になっていたはずです。豪族が生まれてきたときには、すでに天皇が、人々の心のよりどころとして定着してしまっていたのだから。
奈良盆地の古代人は、むりやり上から支配されていたのではない。こちらからリーダーを求めずにいられない不安を抱えて平地での暮らしをはじめていたのだ。平地に定住する不安、男と女が一緒に暮らす不安、土地が水浸しになる不安、彼らは、それらをぜんぶ受け入れた。それくらい不安だったから、みずから天皇をまつり上げたのだし、そういう不安でも受け入れてしまうのがさすらいびとの習性であるし、受け入れて住み着かずにいられないほどに奈良盆地を取り囲む山々に魅了され、いざなわれてしまっていた。
住みにくいからもとのところに戻ろうとはしないのが、さすらいびとのさすらいびとたるゆえんなのだ。不安や困難は、死ぬまで受け入れてしまうのが、さすらいびとです。勤勉だからではない。これがこの世界(生)のすべてだ、と受け入れてしまって、ほかの発想が浮かばないからです。ほかの発想が浮かぶくらいの堅実さと勤勉さがあれば、とっくにほかの場所に住み着いている。奈良盆地は、山なみの景観は最高だったが、住み心地いおいては、最悪だったのです。
それでも彼らは、この地に住み着かずにいられなかった。