国求(ま)ぎ・いざなう存在としての天皇Ⅱ

奈良盆地に人が住み着いていったのはおそらく弥生時代後期であり、彼らは、住み着くために天皇という存在を求めた。
「国求(ま)ぎ」・・・・・・神武東征の漂泊の旅を、古事記ではそう言っている。
「妻求(ま)ぎ」という旅もある。もちろんこれは縄文いらいのツマドイ婚そのものであり、イザナミイザナギの話に始まって、男女の出会いはすべて「妻求(ま)ぎ」だともいえる。オオクニヌシが出雲から越の国のヌナカワヒメをツマドイしていった話や、歴代の天皇も、あちこち妻まぎの旅に出かけている。
古事記において「求める」という行為は、単純に能動的な意志だけによるのではない。それは、「いざなわれる」行為でもある。古事記の作者たちは、どうやらそういうニュアンスでこの言葉を使っているらしい。神武天皇は、アマテラスにいざなわれて日向を出発し、幾多の艱難辛苦をくぐり抜けたのちに、最後はヤタガラス(サッカー日本代表のシンボルマークであるあのカラスです)にいざなわれながら熊野の山中を脱出して奈良盆地に入ってゆく。
古代人が奈良盆地に住み着いていったのも、ひとつの「国求(ま)ぎ」だった。彼らは、住みにくい地理条件を受け入れることによって、まわりの山なみになおひとしおの感慨を深くし、いざなわれていった。そして、天皇を求めていったのも、天皇を深く敬愛していざなわれてゆく過程でもあった。神武東征は、彼らが奈良盆地に住み着いていったパターンそのままだと思えます。ヤタガラスは、彼らの初期の暮らしにおける卑弥呼のごとき女巫女の天皇を連想させます。卑弥呼は、邪馬台国の住民をいざなう「姉」であったのだ。
漂泊者は、何かを求めて漂泊しているのではない。いざなわれているだけです。
われわれが何か高い買い物をするとき、その品物が買ってくれと訴えてきているような気がしたから、というような話がよくされます。けっきょく、そのような自分をいざなう力によって、われわれは生かされている。日本列島で暮らしている人間の生きようとする意志なんて、たよりないものです。
山野をさすらっていた縄文の男たちにしても、さすらおうとしていたのではなく、あちこちに点在する女たちの集落にいざなわれていただけです。そういう意志や欲望がなくなってゆくことが、さすらうことです。
奈良盆地にたどり着いた古代人だって、いい暮らしがしたいというような意志も欲望もなかったから、あんな沼地同然の場所に住み着いてゆくことができたのだ。あったら、その意志と欲望でさっさと別の地に移動してゆくか、もとのところに帰っていったはずです。
古事記が、そのようないざなう力の不思議を語っているとしたら、日本書紀は、少しずつ意志や欲望による達成の話へと変えていっているらしい。
古事記における「国求(ま)ぎ」も「妻求(ま)ぎ」も、けっきょくはいざなわれてゆく展開へと流れてゆきます。嘆きながらいざなわれてゆく、このパターンによって、聞く者をカタルシスにみちびいてゆく。
神武東征においては、戦いの旅の艱難辛苦とともに、たくさんいた天皇の兄たちがつぎつぎに死んでゆき、奈良盆地にたどり着いたときは誰もいなくなっている。彼は、そのつど嘆きを深くしながら奈良盆地にいざなわれていった。そうやって、神武東征の正当性とカタルシスがもたらされている。
とにかく古事記の主人公たちは、じつによく泣く。奈良盆地に住み着いてゆくことは、嘆きとともに生きることであって、けっしてそれ以前より安穏な暮らしを手に入れてゆくことではなかった。つまりそれは、そういう歴史過程と、そういう嘆きの上に天皇崇拝が確立されていったことを意味しているのかもしれない。
あのもっとも勇猛果敢で荒ぶる魂の持ち主である英雄ヤマトタケルでさえ、最後の東征のときはどんどん弱気になってめそめそ泣いたりし、ヤマトヒメとオトタチバナヒメにいざなわれながら、ようやく任務を果たすことができたのです。
われわれは、「姉」である天皇にいざなわれながらこのまほろばの地である奈良盆地に存在しているのだ・・・・・・そういう感慨の上に古事記が成り立っている。それはもう、現代人が天皇家のことをなんと思おうと、そういう歴史があったことは認めるほかないのではないでしょうか。