古事記における漂泊のかたち

古事記に登場する悲劇の主人公は、奈良盆地の外縁をさすらってゆくパターンが多い。これは、奈良盆地の人々が抱いていたさすらう心性の表現として、知らず知らずのうちにそういうパターンになっていったと解釈することもできます。
東征してきた神武天皇は、最初まっすぐ河内から奈良盆地に入ろうとしたが、先住民であるナガスネヒコ率いる敵の軍勢に追い払われ、南紀の荒海を迂回して熊野の山中に迷い込んでゆくという苦難の旅を余儀なくされる。そしてようやくヤタガラスの先導を得て、敵の背後から入ってゆき、奈良盆地を制圧していった。つまり、そういう失意の漂泊を付け加えることによって、その「国求(ま)ぎ」に正当性が与えられていった。
東征を果たしたヤマトタケルは、帰途、最後の最後で伊吹山の神との戦いに敗れ、鈴鹿山脈沿いに南下して敗走してくるが、自分を拒む父=天皇のいる奈良盆地に戻ることをためらい、その外縁を漂泊しつつ、ついに死を迎える。
仁徳天皇の皇后イワノヒメは、側室を寵愛する夫が許せないまま、失意のうちに難波の宮から生まれ故郷の葛城(奈良盆地の北)に帰ってゆく。そしてそのとき彼女もまた、奈良盆地に入って横切ってゆくということはせずに、わざわざ遠回りして、奈良盆地の西を船で迂回してから北の奈良山を越えてゆくという旅を選んだ。が、その峠から、故郷を望みながら死んでゆく。
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「そま道」という言葉がある。人間が歩いて踏み固めた縄文以来の山道、それは、山の斜面に沿ってつくられている。斜面を縦に上ったり下りたりすることは困難だから、とうぜんそういうかたちになる。それに、山野をさすらう者が谷に下りてゆけば、そのあと上ってゆくきつい行程が待っているわけで、彼らの移動はあくまで山の斜面に沿ってなされていたらしい。
縄文時代の女たちの集落は、水の便のよい谷間ではなく、その不便をいとわないかのように、あえてそま道に近い高い場所を選んでつくられていた。言い換えれば、男たちもまた、女たちの集落の外縁をさすらっていたわけです。
そま道の「そ」は、「沿う」ということらしい。
外縁、すなわち「世界の果て」ですね。日本列島が海に囲まれた島であるという地理的条件が、そのような世界の果てを沿ってゆくという行動性とメンタリティをつくっていった。ここではもう、外縁を歩き回るしかないし、外縁の外はないのだという認識を先験的に持たされていた。
外縁を「沿う」という行動性は、日本列島で暮らす人間の縄文時代以来の伝統であった。ことに奈良盆地の人々は、そこがまだ沼地だったころには、山の縁に「高地性集落」をつくって暮らしていたのです。つまり、男たちはそこで、山の縁に沿ってさすらいながらツマドイをしてゆき、おそらくもう、奈良盆地を取り囲む山の向こうがわには行かなくなった。そのようにして、奈良盆地の外縁をさすらうことが、歴史的に体にしみついた習性になっていった。
古事記を語り継いでいた人々は、外縁を漂泊するというかたちで失意と物語のクライマックスを表現していった。彼らにとって「沿う」ことは、失意であると同時に、カタルシスでもあった。
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「人にはそうてみよ」という古い格言があるように、この国では、それが人と人の関係をつくる上での流儀であり、醍醐味であった。人にそうてゆく関係とは、相手の外縁を沿うことです。つまり、相手が主役で自分が脇役である関係、そして、ヤタガラスと神武天皇のように、天皇奈良盆地の住民のように、あるいは奈良盆地の山々とそこに住み着いていった人々のように、相手にいざなわれみちびかれる関係のことです。
「そう」という言葉には、なにか受動的なニュアンスがある。
「そう」の「そ」は、「そっと」とか「そろり」の「そ」です。べたべたくっついてゆくことが「そう」関係ではない。こんな格言もあります。「(人との関係は)畳の目ひとつづつ仲良くなってゆけ、畳の目ひとつづつ別れてゆけ」・・・これが、日本列島に閉じ込められ定住していった人々、すなわち弥生時代に入っておそるおそる男と女が一緒に暮らすということをはじめた人々の人づき合いの知恵であり、行動性であったらしい。
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奈良盆地にやってきた古代の人々はたぶん、はじめ周囲の山の斜面に高地性集落をつくりながら沼の水を眺めて暮らし、沼の水が引いてゆくにしたがって、そろりそろりとそこに下りていったのでしょう。だから、外縁を漂泊するという古事記の発想が生まれ、そういう人づき合いの流儀がつくられていったのだろうと思えます。
「外部=海の向こう」のことはわからないと嘆きつつ、外縁においてこの世界が完結していると認識しながらさすらってゆくこと。おそらく縄文人にとってその外縁は、海岸線ではなく、周囲の山なみだった。海岸線から山なみに囲まれた土地に入ってきたことによって、そのわからないという嘆きが、ひとつのカタルシスになっていった。山なみに沿って歩くことのカタルシス。それが、列島中に「そま道」をつくり、男たちが漂泊して女たちが山中に集落をつくるという生態をつくっていった。
そのとき男たちも女たちも、この山なみが世界の果てだ、という感慨で暮らしていた。
縄文人は、男と女が一緒に暮らすということをしなかった。男たちは、あくまで女たちの外縁を沿うというかたちで暮らしていた。「そう」という関係は、そのときすでに始まっていたのです。
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そうして弥生時代に入り、平地に定住して農耕生活をはじめるにさいして、ようやく男と女が一緒に暮らすという社会の構造ができてきた。しかしそれまでの習慣からして、そうそうなれなれしい関係にはならなかったはずです。男は戸惑い、女は恥らいつつ、やっぱり「そう」という関係を模索してゆくほかなかった。
一緒に暮らしながら、なおさら「そう」という関係で向き合うしかなかった人と人の関係、そういうやりくりをしながら、もしかしたらここで一気にやまとことばが花開いていったのかもしれない。
それはつまり、身体の外縁においてこの生を完結させてゆくメンタリティでもあります。身体の外縁(輪郭)はこの生の果てだ、という感慨。この国では、そういう感慨の上に立って、「そう」という人と人の関係がつくられてきた。
男と女が抱き合うとき、たがいに、みずからの身体の外縁にたいする意識が消えて、相手の身体の外縁が浮かび上がってくる・・・・・・そういうかたちで、みずからの身体が完結する。これは、抱き合うことだけでなく、ただ話をするだけでも同じで、男女の関係の本質であろうと思えます。目の前の相手を異性であると認識することは、みずからの身体がそこで押しとどめられて完結してしまうことだ。まあ、この先にいろいろややこしい意識論とか身体論を展開することもできるのだろうが、とにかくそういうことです。
相手の身体の外縁に沿いながら、みずからの身体を完結させること、これが男女の関係というか、日本列島における人と人の関係だった。
おそらくやまとことばの身体性は、そのように身体の外縁で完結してしまうほかない男と女の関係からきている。男どうし女どうしの関係では、相手も同じ性だから、身体が完結してしまわない。つまり、身体が完結してしまわない共同性によって、やまとことばが育ってきたのではない、ということです。日本列島においては、他者は、異性としての「まれびと」だった。
大陸では、地平線というこの世界の果ての向こうまでいけるから、この世界で世界を完結してしまう世界観とか、たがいの身体の外縁で完結してしまう関係というような感慨は、おきてこない。果ての向こうまでいけるから、相手の心の中まで入っていってしまう。
しかしこの国では、あくまでこの世界の外縁、身体の外縁をさすらってゆくしかない。
古事記における悲劇の主人公は、そうやって奈良盆地の外縁を漂泊していった。それはおそらく、奈良盆地で暮らす人々の身体感覚だった。思想や観念の問題ではない。