天孫降臨と神武東征Ⅱ

濠のある前方後円墳は、おそらく最初は、川や沼地が氾濫したときに濠に水を集めてしまう機能を持っていたのだろうと思えます。そうやって集落や耕作地を守った。その古墳は、人里離れたところではなく、集落や耕作地にくっつくようにしてつくられていった。あるいは、古墳のそばに集落や耕作地をつくった。
言い換えれば、濠のある前方後円墳をつくることによって、はじめて奈良盆地の平地に住み着くことが可能になった、ということかもしれない。
奈良盆地では、その初期段階として、山の斜面や小高い丘につくられた弥生時代後期の集落跡がたくさん見つかっています。ある研究者は、これを、そのころ戦争が絶えなくて、いざというときに避難する「逃げ城」だったのだろうといっています。
まったく、何言ってるんだか。その発言者が、かの有名な森浩一先生だというのだから、あきれてしまいます。
その「高地性集落」の周りには二重の堀がつくられている場合もあって、それで敵の侵入を防いでいたのだとか。小さな堀です。そんなもの、一時間もあれば橋がつくれる。おそらく、そういうところは水の便が悪く、そこに水をためて下水と上水用に分けていたのでしょう。そしてそういう集落形態から、濠のある前方後円墳の発想が生まれていったにちがいない。
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日本列島において、濠のある前方後円墳はまず奈良盆地から現れてきたのだが、その最古のものを、きっと卑弥呼の墓だ、という研究者もいます。しかもそれは、当時の朝鮮半島で最大のものよりもなお大きいのです。奈良盆地の古墳は、だんだん大きくなってきたのではなく、いきなりそんな大きいものから始まっているのです。つまり、権力者が、もっと大きいもの大きいものと誇示しようとしてだんだん大きくなってきたのではなく、最初から大きくしなければならないわけがあった。それは、ほかの権力と比べるためのものではなかったし、むりやりそんな大きな墓をつくらせることができるほどの権力など、まだ生まれていなかったはずです。
研究者は、すぐに「巨大古墳は権力を誇示するためのものだ」というが、ようやく共同体のかたちを模索しはじめた弥生時代後期に、中国大陸の権力者の墓に匹敵するほどの規模のものを同じやり方でつくらせることのできる権力者がいたはずないでしょう。
また奈良盆地では、墓地のまわりに濠をつくる習慣も弥生時代からありました。それは、生と死を隔てる境界という意味であったのか、とにかく奈良盆地の人々は、もともとまわりに濠をつくりたがる習性を持っていたわけです。
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そうして、平地に下りてきて、濠のある前方後円墳をつくった。それは、田に水を供給するための溜池、ということではない。沼地だらけだった古代の奈良盆地でそんなことをする必要はなかった。あくまで逆に、集落や畑が水浸しになってしまうことから守るために、川からあふれてきた水を逃がす場所が必要だった。
奈良盆地は周囲が山に囲まれた絶好の景観だったが、同時にそれは、周囲の山から流れてくる水がすべて奈良盆地に集まってしまう、ということでもあり、おそらく弥生時代に入ってもまだ、ほとんどが沼地だったはずです。だから、あんなに広々とした土地を前にしながら、なお高地性集落が点在していた。
日本列島の前方後円墳で、濠を持っているのは、ほとんど奈良盆地とその周辺だけなのです。それは、そのころ沼地のそばで暮らしていたのは、奈良盆地とその周辺の人々だけだった、ということを意味します。水の便がわるい高地性集落で暮らしていた経験が、水の多い沼地のそばで暮らすことに役立ったとは、なんとも皮肉です。そしてそれは、縄文時代の山の民の暮らし方でもあった。縄文時代の女だけのその集落は、水の便のいい谷間よりも、ツマドイをしてくる男たちの行動圏に近い比較的高い場所を選んでつくられていた。つまり、そういうさすらいびとが奈良盆地に下りていって暮らし始めたのだ、ということです。
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もしかしたら、平地で暮らし始めたころの奈良盆地では、たとえば稗田の環濠集落のように、すべての集落が、川や沼が氾濫したときのそなえとしてまわりに濠をつくっていたのかもしれない。彼らはそういう技術を持っていたし、おそらく濠は、あればあるほどよかった。だから、わりと小さな墓でも、たいてい律儀に濠を持たせている。
奈良盆地の人々は、実生活のための濠と信仰のための山をつくる事業としての古墳造営に、進んで参加していったらしい。そしてそういう土木技術が、やがて大きな水路をつくる技術になり、ついには巨大古墳造営とともに沼地を干拓してゆくムーブメントに発展していった。
仁徳天皇は、水路をつくる土木工事のとても熱心だった。その成果が、あの巨大古墳になったのでしょう。べつに、もっとも強大な権力を発揮した天皇であったのではない。
大和川下流の河内平野は、東に古市古墳群、西に百舌鳥古墳群と巨大古墳に囲まれ、おそらくそれによって、はじめて人が住める土地になった。それまでは、ただの沼地だったのです。
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とにかくそういう歴史のうえに立ってはじめて「豊葦原のなかつくに」という言葉が生まれてくるのであって、もしも巨大古墳造営のムーブメントのあとに騎馬民族が乗っ取ったのなら、すくなくとも権力者は、「豊葦原のなかつくに」という言葉はけっして使わなかったでしょう。そのころの奈良盆地は、すでにもうそんな条件を克服した「まほろば」だったのです。
奈良盆地の人々が「豊葦原のなかつくに」というとき、どんなに深い感慨がこめられていたことか。古代において、葦の茂る沼地のそばで暮らし、沼地と関わっていたのは、おそらく奈良盆地の人々だけだったのです。そうやって沼地を克服していった土木技術が、やがて列島中に広がってゆき、ほかの地域の住民も葦原=沼地をいとわなくなっていった。
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弥生時代後期から古墳時代にかけての奈良盆地の人々は、豪族に支配されていたのではない。みずから天皇をまつり上げていったのだ。豪族と天皇は、違う。豪族が大きくなって天皇になったのではない。天皇は、最初から天皇だったのだ。奈良盆地に大きな権力がいきなりやってきて、大きな墓をつくらせた、などということはありえない。侵略者は、王になることができても、天皇になることはできない。つまり、奈良盆地に君臨していたのはずっと天皇だったということは、侵略者などいなかった、ということです。奈良盆地の外にそんな大きな権力があったはずがないし、濠のある大きな前方後円墳がほかの地域で先行して試されていたという例もない。
豪族よりももっと大きな存在としての天皇をまつり上げることも、濠のある大きな前方後円墳をつくることも、権力の意志などではまく、あくまで奈良盆地の人々がみずから選び取った知恵だったはずです。さすらいびとである彼らにとって、定住することはそれほど落ち着かなく不安なことだったし、沼ばかりの土地で暮らしてゆくことは、あんなばかでかいものをつくらざるを得ないほどやっかいなことだった。
それでも彼らは、おだやかな山なみに囲まれたその景観に、抗しがたくいざなわれていった。彼らにとって「やま」は、深い愛着を抱くとともに、抗しがたい魔力を持った対象でもあった。日本列島をつくったのはイザナミイザナギであり、やまとことばにおける「いざなう」という言葉には、けっしてひとすじなわではいかないニュアンスが含まれているはずです。