再考・前方後円墳

もうちょっと前方後円墳にこだわってみます。
奈良盆地とその周辺の大きな前方後円墳のほとんどは、被葬者がわかっていません。あの仁徳陵でさえ、ほんとうのところは誰の墓かわからない。だから、学術的には仁徳陵ではなく、「大山(だいせん)陵」というのだとか。わからないのは、宮内庁の管理になっていて研究者の立ち入り調査ができないかららしいのだが、それ以前に、なぜ天皇家でも人々のあいだでも正確な言い伝えがなされてこなかったか、という問題もある。それらがつくられた200年か300年後の奈良時代にはもう、ほとんどがわからなくなってしまっていて、人々が勝手につくった伝説や地形にちなんで呼ばれていたらしい。
たとえば、最古級の前方後円墳である「箸墓」の、その呼び名は、すでに日本書紀に出てきます。それは、三輪山の神との恋に破れたモモソヒメの墓であるのだとか。モモソヒメなる女性が実在したかどうかはわからない。いたとしても、皇后ではない。いたとすれば、生涯結婚しなかったが住民にはとても慕われていた天皇家のある女性、ということでしょうか。そして、つくられた当時としては最大級であったその墓を、そんな女性の墓として誰もが認めてしまっていたということは、誰もがそれほどに被葬者を特定することにこだわっていなかったし、住民じしんに自分たちの墓(モニュメント)だという意識があったことを意味する。言い換えれば、それほどに権力のがわの管理がいいかげんであり、それが権力を誇示するためのものだという意識などなかった、ということです。
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奈良盆地の東の河内平野には、二つの大きな古墳群がある。奈良盆地に隣接した古市古墳群で最大のものが応神天皇陵で、数キロはなれた海側の百舌鳥古墳群の盟主は仁徳天皇陵
応神天皇陵は、仁徳陵と同じくらい巨大な前方後円墳なのだが、外濠の一部が前からあった古墳と重なっていて、内側に大きく歪んでいます。なぜそんな窮屈なつくり方をしたのか。「権力の誇示」の態度としては、いかにもいじましすぎます。余分な土地は、ほかにいくらでもあったのです。
応神天皇陵の墳丘は、仁徳陵よりも大きい。しかし外濠は、仁徳陵のそれよりずっと浅い。だから、濠を掘った土だけではまかないきれるはずがなく、たくさんの奴婢を使ってどこから運んできたのだろう、と研究者は言っています。
だが、この説明は、きわめて疑わしい。その運んできた土が平地を掘ったものであるなら、そこに古墳をつくればいいだけの話です。では、山を削ったのか。山にたいする信仰を持っていた古代人がそんなことをするはずがないし、そうやって干拓していったという証拠は何もない。またそんなことをするよりも、濠を掘ってそこに水を集めてしまうほうがずっと効率的だった。古代人は、山を削るなんて、そんな畏れ多いことはしなかった。
応神天皇陵があるあたりは、いくつもの前方後円墳が、つながるように並んでいます。つまり、そのあたりは小高い丘が連なっていて、その丘をそのまま古墳の丘に転用していったのだろう、ということです。だから、浅い堀でも、あんなばかでかい墳丘にすることができた。そして、その小高い丘を利用するつもりだったから、前の古墳と少々重なってしまっても、そこにつくるしかなかったのでしょう。
それにたいして仁徳陵の濠がとても深く掘られているのは、それが完全な平地につくられたものだからでしょう。そうして掘った土は、ぜんぶ墳丘を盛り上げるのに使った。
仁徳陵のあたりは、まわりよりもこころもち低くなっています。だから、自然にまわりの水が濠に集まってきた。現在の仁徳陵の濠は三重になっているが、つくられた当初はひとつだけだったのだとか。しかしそれだけでは間に合わなくなって、あとから付け足されていったらしい。そのために、「陪墳」といってそばにつくられた家来の古墳と、二重目の濠が重なってしまうことになった。
前方後円墳に関する研究者の説明には、疑わしいことがたくさんあります。ことに彼らは、それは、権力を誇示するために住民を牛馬のごとくこき使ってつくったのだ、という固定観念を持っています。彼らは、それがどんなに愚劣で短絡的な思考であるかということを、まるで自覚していない。
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えらい人、とくに天皇の墓のことを「陵(みささぎ)」という。
前方後円墳が「権力を誇示するため」であったか否かを解く鍵は、この言葉の感触にあるように思えます。古代の人々は、いったいどういう気分でこの言葉を使っていたのだろう。
みささぎの「み」は、「み仏」とか「み吉野」とか「み霊(たま)」というときと同じ接頭語か。そして「ささぎ」は、「捧(ささ)げる」、あるいは「奉(ささ)げる」。奈良盆地の住民のささげもの、すなわち天皇(家)にたいするプレゼントである、という意味でしょうか。
あるいは、「み」は「身」であるのか。身をささげる、という使役。これは、ちょっと違うでしょう。そういう行為を表している言葉とは思えない。それに、もし住民がむりやりつくらされたのなら、「ささげる」とは言わないでしょう。そこまで住民も、お人よしではない。
それとも、「かみ(神)ささぎ」ということでしょうか。神にささげる・・・しかし天皇はすでに神なのだし、それじたい神域なのだから、この意味も論理的に成り立たないはずです。
「ささぎ」が「ささげる」であるなら、これはもう、住民の天皇家へのささげもの、という意味に解釈するのがいちばんしっくりくるように僕には思えます。
また、「みささぎ」とは「みそぎ=神聖な地」である、というのなら、それは住民の「ささげる」という行為の上に成り立っているからわざわざ二つの言葉を合わせて「みささぎ」というのであって、でなければ単純に「みそぎ」といえばいいだけでしょう。
川は、流れているから、清(す)んだ水であることができる。さすらうことは、それじたい「みそぎ」の行為である。
一方、流れがよどめば、濁ってくる。定住する者には、「みそぎ」が必要だ。奈良盆地の人々は、定住してゆくための「みそぎ」として、天皇家前方後円墳をささげた。それをささげるから「みそぎ」になるわけで、だから「みささぎ」なのではないだろうか。「みささぎ」という言葉には、「ささげる」と「みそぎ」の両方のニュアンスがこめられているのかもしれない。
あるいは、「(濠に)水がそそぎこむ」の「みささぎ」でしょうか。古代の人々は、前方後円墳にそういう機能を持たせることによって、水浸しであるまわりの土地を干拓していったはずです。
いずれにせよ、自分たちがつくった前方後円墳に、天皇家の人に入っていただいた・・・入っていただくことによってはじめてそれは、自分たちの暮らしを守ってくれる神聖な「山」であることができた。奈良盆地とその周辺の前方後円墳は、人々にとってのそういう存在だったのではないでしょうか。彼らはそれを、権力の所有物ではなく、自分たちのものだと思っていた。そういう気分で「みささぎ」と呼んできたのではないでしょうか。