まれびと論・39 古代における人の往来と出会いの文化

折口氏は、古代の都が奈良盆地にあったとしても、民衆のほとんどは海辺で暮らしていた、と考えているらしい。
それは、違う。一般の民衆も、ほとんどが内陸部で暮らしていたのです。海辺の平原は、ほとんどが湿地帯だった。
古代に、東海道五十三次のような海辺の道はいっさいなかったのです。
古代の道づくりは、内陸部で行われていた。道と道をつなぐ中継地の「駅」は、ほとんどが内陸部にあった。人びとは、内陸部を往還して暮らしていた。中仙道の原型は、すでに古代から出来ていた、といわれています。
日本列島の民衆に乗馬の風習が根付かなかったのは、それが出来そうな平原はすべて湿地帯だったからです。しかし、「駅」という字が示すように、馬は、とても大切にされた。馬がなければ効率的な輸送はおぼつかなかった。道づくりとは、馬が通れる道をつくることだった。人が通れる道くらい縄文時代からあったが、馬の道は古代になってからつくられた。だから「駅」という。
そして、馬を生産する牧場は、すべて内陸部にあった。「牧(まき)」という地名は、牧場のことです。長距離輸送のときは、ここで疲れた馬と新しい馬とを取り替えた。「まき」とは、「馬の駅」というような意味です。
弥生時代から古代にかけての日本列島の文化は、人の往来も米づくりも、内陸部で発展していった。折口氏のいう「常世信仰が醇化していった」はずの飛鳥時代やそれ以前こそ、もっとも活発に海辺から内陸部へと人が流れ込んでゆく時代だったのです。
そのころの日本列島は農耕生活が定着していった時代であったのだが、海辺の平地のほとんどは湿地帯で、農耕生活ができる土地は内陸部にしかなかった。
海辺で暮らしていたから常世信仰だなんて、こじつけもいいところです。
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古代に干拓された海辺の平原は、大阪の河内平野だけだった。そしてそこを耕作地に変えるためには、仁徳陵をはじめとして、あれだけ多くの前方後円墳をつくってそこに排水してゆく必要があった。
奈良盆地の人びとが、なぜあれだけ多くの大規模古墳をつくることが出来たのか。日本中から海の暮らしを捨てて奈良盆地にやって来る人がたくさんいたからでしょう。すでに耕作地を持っている人びとは、そういつも古墳づくりには関わっていられない。とくに仁徳陵のある堺市あたりは、湿地帯だから人など住んでいなかったし、奈良盆地から行くには一日がかりです。
それでも、一時は築造ラッシュだったのです。それほどに人が集まってきていた。歴史家が言うように、権力者が奈良盆地の住民をこき使ったなんて、そんなことですむようなレベルではなかった。
古代の民衆は、どこへでも逃げてゆくことができたのです。じっさいに税の取立てが厳しくなった奈良時代の後期には、畿内の民衆が相次いで離散するという現象が起きて、その禁止令が何度も出された。古代であれ中世であれ、日本列島の公共事業は、権力の強制によってではなく、つねに民衆の労働奉仕によってなされてきた。むりやりこき使ったら、古代の民衆は、どこにでも逃げていってしまうのです。逆にいえば、古代といえども、それほどに人の往来はさかんだったことを意味する。何しろ、「歩く文化」の国だったわけで、男たちにはまだ山道を歩く習性が残っていた。
天皇陵のことを、「みささぎ」という。民衆が天皇に「ささげた」からでしょう。民衆の意志がなければ、そんな言葉にはならないはずです。
全国に湿地帯はいくらもあって、大和朝廷が地方の豪族に前方後円墳をつくることを禁止していたわけでもないのに、奈良盆地の周辺でしかその築造ラッシュは起こらなかった。
地方には、そんな余剰人員などいなかったし、湿地帯を干拓する必要もなかったからでしょう。海辺からやって来たわずかの人間が住み着くことのできる原っぱなどいくらでもあった。だから「原」がつく地名が全国にたくさんある。
しかし奈良盆地には、干拓してゆくことによってしかよそからやってきた人が住める土地はなかったし、それができるくらいたくさんの人が集まってきていた。
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稲作農耕が本格化してきたことによって、海辺の暮らしを捨てる人びとが生まれてきた
「主食」という言葉には、深い意味があります。魚や肉に比べたら、米なんて味も素っ気もない食い物です。それでも人がそれにこだわるということは、食うことなんかとりあえず腹がふくれればそれでいい、という意識があるからでしょう。味も素っ気もない食い物こそ、食い物の原点なのです。腹がふくらむことが食うことの充実であって、うまいものを食うことではない。腹がふくらむために食うことは、食うことの原点であると同時に、究極の文化でもある。西洋人がサンドイッチを考え出したのは、食いながらトランプをするためだったそうだが、それは、腹がふくらめば何でもよかったからであり、食うことよりも大事なことがあったからでしょう。
人間にとっては、食うことよりも、もっと大事なことがある。そういうことを求めて、海辺の人びとが奈良盆地に集まってきた。
それは・・・・・・とりあえず、「人と出会う」ことだ、といっておきます。「まれびと」の文化や起源のことはそういうレベルで考えるべきであって、「貴人に対する饗応」だの「常世の神の来訪」だの、そういう問題ではないのです。
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古墳時代奈良盆地は、日本列島でもっともダイナミックに人と人の出会いが起きていた地域だった。そういう状況から、「まれびとの文化」が「醇化」していったのだ。
古事記を語り伝えた奈良盆地の人びとが、われわれの祖先は海を渡ってやって来たのだという物語(神武東征)をつくったのも、海辺の地方からやって来た人々との語らいから生まれてきたのでしょう。
その神武天皇は、南紀に上陸し、熊野の山中を抜けて奈良盆地にやってきたことになっているのだが、それは、実際にそうやって南紀からやってきた人の体験談をもとにしてつくられた話にちがいない。
また、南紀の神であるスサノオの名が伝わってきたのも、それだけその地方からやってくる人が多かったからであり、古代人にとっての南紀の海はそれほどに恐ろしい対象だったことを意味している。
古事記は、民間伝承です。奈良盆地の民衆が、どうしてあんなにも日本中のことをよく知っていたのか。それは、奈良盆地から遠征していった兵士から聞いた、というような生半可な知識じゃない。よそ者である兵士が、そんな細部の地名まで知っているはずがない。
古事記の物語が日本中を舞台にしているのは、民衆の中で日本中から奈良盆地に集まって来た人たちとの語らいがあったからであって、それが史実とどう符合しているかと詮索することなんかせんないことです。日本中のことは、権力者よりも、どこにも行ったことのない地元の民衆のほうがよく知っていたのです。だから、その民間伝承が国史として採用された。ほんらいなら逆のはずです。権力者が支配の強化のため、民衆に向かってに下ろしてゆくものです。
古墳づくりに参加すれば、それによって干上がった土地がもらえて、米の飯が食えるようになる。奈良盆地やその周辺で古墳づくりが盛り上がったのは、海辺などからやってきた人びとがそこに住み着こうとしたからであって、支配者がみずからの権力を誇示するためではない。そんなことのために人をこき使える時代ではなかった。それが可能になったのは、「文字」による支配がなされるようになってからのことです。そしてそうなってから、もう大きな古墳をつくってはならないというお触れが出されたのです。そういうお触れが出たということは、それまで民衆が勝手につくっていたということを意味する。
つまり、人と人が出会うという「まれびと」の体験から古墳づくりの文化が生まれてきたわけで、そのとき日本列島に海の彼方の「常世信仰」などというものが起きてきていたのなら、奈良盆地に人が集まってくることも大和朝廷も生まれることもなかったはずだ、ということです。