まれびと論・38 「常世信仰」の解体

折口氏の提起する「常世信仰」は、日本列島の住民の暮らしは海辺から始まった、という認識の上に立っています。そして、やがて内陸部で暮らすようになって、もともと来訪する神のイメージであった「まれびと」という言葉が人のことを指して使われるようにもなってゆき、同時に、常世信仰もしだいに解体されていったのだとか。
では、そのメルクマールは、いったいどの時代にあったのか。
次のように語っています。
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常世の国は、飛鳥の都の末頃にはすでに醇化して、多くの人びとに考えられていたようであるが、・・・(中略)・・・ 平安期に入っては、常世の夢覚めて、ただ、文学上の用語となり、雁がねに古風な情趣を添えようとする人が、時たま使うだけになってしもうた。まことに、海の彼方に憧れの国土を観じた祖先の夢は、ちぎれちぎれになってしもうたのである。
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海の彼方の楽土に憧れる「常世信仰」は、飛鳥時代以降の古代に形成され、中世になってから解体されていった、と言っている。
では、飛鳥や奈良の都は、どこにあったのでしょうか。内陸部の山に囲まれた奈良盆地にあった。そこの宮廷人が、大陸から伝わってきた「常世の国」のイメージがどうのと語り合っていたのです。それは、海を知らないわけではないが海を眺めて暮らしているわけでもない人びとによって迎え入れられたのです。彼らには、海に対する無邪気な憧れがあった。だから、「常世の国」が信じられた。
海辺で暮らす人々にとっては、海は収穫の場であると同時に、恐ろしいところでもあります。
古事記」のスサノオノミコトは、はじめは和歌山県の熊野あたりの海辺で信仰されていた神だったともいわれています。古事記の神話の中で、もっとも恐ろしく凶悪な神です。その神は、海に対する畏怖から生まれてきた。これが、日本列島の海辺で暮らす人びとの海の神の原型です。
「うみ」の「う」は、「うっ」と息がつまる発声です。「み」は「身」、身体とか実在というような概念。古代人にとっての海とは、そういう対象だったのです。
スサノオ」の「すさ」は、「荒(すさ)む」という言葉からきているのでしょう。「スサノオ」から「すさむ」という言葉が生まれたのではない。「すさむ」という言葉があったから「スサノオ」と名付けられたのだ。
「す」は、「滑(すべ)る」とか「擦(す)る」の「す」。
「さ」は、「裂く」の「さ」。
「すさむ」とは、この世界を引き裂くように荒々しいこと。心が「すさむ」といえば、破れかぶれになること。そして「スサノオ」の「お」は、「恐(おそ)ろしい」の「お」。「スサノオ」という名称は、荒れ狂う海に対するひとびとの胸が引き裂かれるような恐怖を表象している。
これが、海辺で暮らす人々の海に対する感慨です。
しかし、海に対する無邪気な憧れを持つ奈良盆地の人びとは、そんな神は奈良盆地を素通りさせて、出雲に追いやってしまった。そうしてそこで、ヤマタノオロチを退治させた。
じっさいに海辺で暮らす人々と無邪気に海に憧れる内陸部の人びととの、海に対するイメージの温度差です。
海辺の人びとは、海の向こうに永遠の楽土である「常世の国」がある、などというイメージは持たない。せめて、恐ろしい海の底に竜宮城があってくれれば、と願うばかりです。
備後国風土記」には、海の向こうからやって来る「武塔(むとう)の神」の話が出てくる。折口氏は、この話を水戸黄門の印籠のように差し出してくるのだが、備後といえば、備前岡山県)の山奥です。だから、そういうところで暮らす人々には、どうしても海に対する無邪気な憧れや好奇心がある。しかも岡山県は瀬戸内海に面しているから、遠くの島々や四国の山かげを眺めることができるし、そこから人がやって来るという体験をいつもしていた。で、それがときに神の話に潤色されたりもする。茫漠とした太平洋の荒海を前にしている熊野の人とはわけが違う。
海辺の人びとは、水平線の向こうの「常世の国」などというイメージは持たない。水平線の向こうからやってくるのは、太陽だけです。太陽=天照大神に対する信仰が古代に「醇化されていった」信仰であるというのなら、僕も否定はしない。太陽は、海辺の人びとにとっても山で暮らす人びとにとっても、「彼方」からやって来る「まれびと」です。
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日本列島の住民における海辺の暮らしから内陸部への移行は、古代以前の農耕栽培の発展とともにある、それによって内陸部に吸引力が生まれたのだ。古代人の多くは、海の暮らしをしていたのではない。海の暮らしをしていなかったからこそ、ときにお気楽な海のイメージで遊ぶこともできたのだ。折口氏のいう、平安時代になってから海の暮らしを捨てたというような、そんな歴史的な事実はない。
その平安時代に「海の彼方に憧れの国土を観じた祖先の夢はちぎれちぎれになってしもうた」のは、ただ宮廷人や僧侶のそうした観念ゲームが庶民のところまで広がっていかなかったし、宮廷人や僧侶じしんも飽きてきたからでしょう。それは、もともと日本列島の住民の世界観・生命観にそぐわないものだったのだ。
中世はむしろ、漁業が進化し、海運業なども起きてきて、海辺の暮らしが定着していった時代だった。また平原の湿地帯も干上がってきて、海辺での稲作も盛んになってきた。そうなって、「ちぎれちぎれになってしもうた」のです。
まったく、折口氏のいう「常世信仰」なんて、粗雑なこじつけばかりです。