まれびと論・40 「新嘗」

「新嘗」という言葉の語源の解釈で、ちょっと訂正したいことがあります。
折口氏は、「にひなめ」は、「にへのいみ(贄の忌み)」から転化した、といっています。で、「にへ」とは、高貴な人の食べ物のことであるのだとか。新しく収穫した米を神にお供えして神とともに食する。だから、「にへ」はそのまま「神」を意味する、というわけです。
このいかにも学者らしい持って回ったこじつけに、僕もまどわされていました。
そこで僕は、「にへ」の部分はそのまま受け入れ、「のいみ」が「なめ」になったのではなく、「なめ」はそのまま「舐め」だろう、と反論しました。
しかしそれだけではなく、「にひ」の部分も「にへ」ではなく、そのまま「新しい」という意味の「にひ」でいいのではないかと思えてきました。つまり、折口氏のこの語源の解釈は、すべていいかげんなこじつけなのです。
新しい収穫、つまり「新米」のことを「にひ」といっていたのではないか。
「なめ」は「舐め」、「味見をする」という意味だということは以前に書きました。
「にひなめ」とは、「新米を味見する」、それだけでいいのではないでしょうか。つまり、「新米」という「まれびと」との出会いを祝福する祭り、ということ。
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「に」は、後戻りした息が体の芯を揺らして力が抜けてゆくような発声。「く(体に力が入る発声)」という感じで心が揺れたら「にくい」で、「が」という感じで心が揺れたら「にがい」。「に」は、「常ならざるものを前にして心が揺れる」感慨の表象であり、概念的にはその「出現」を意味する。
「ひ」と発声するとき、息が口の中で折りたたまれて体の中に入ってゆくような感じがある。だから、「秘匿(ひとく)」の「ひ」になる。折りたたまれて母に抱かれている赤ん坊はまさにそうした存在で、だから古代人は、生まれてきた赤ん坊が男の子だったら「ひこ」、女の子なら「ひめ」と呼んだ。
太陽もまた、夜に秘匿されてあるから「日(ひ)」という。しかし「日子(ひこ)」「日女(ひめ)」のほんらいの意味は、「折りたたまれてあるもの」としての「赤ん坊」のほうでしょう。
その「折りたたたまれてあるもの」が出現することを「にひ」という。「にひ」とは、「出産」や「日の出」のことだったのではないか。そこから、「新しい」という意味になっていった。
そして収穫も、出産や日の出とおなじ現象です。収穫期の稲は、実が垂れ下がって折りたたまれている。収穫は、それを抱きすくめる行為にほかならない。だから、「にひなめ」の「にひ」は、そのまま「にひ」でいいのだと思えます。古代人にとっての「にひ」は、万感の思いがこもった言葉であったにちがいない。
新嘗という言葉に「まれびと神の来訪」という意味など含まれていない。
「新嘗」という言葉は、折口氏のいう「神に対する畏れ」を意味するのではなく、あくまで「新しい収穫と出会う」という感慨を表しているのだ。
やまとことばの「にひ」を、西洋では「ニュー」という。「にゅうっ、とあらわれる」・・・・・・「新しい」とは、ほんらいそういう感じを意味する言葉であるらしい。
いずれにせよ、作物の収穫などお天気任せ神頼みでしかなく、しかもみずからの身体の延命の手立てもろくにない古代人にとって収穫・出産・日の出を意味する「にひ」という言葉にどんなに重く切実な感慨がこめられていたかということを考えるなら、それが高貴な人の食べ物である「にへ」という言葉だったのだという解釈がいかに愚劣で傲慢な権威主義の産物であるかということをあらためて思い知らされるばかりである。
「にひ」という言葉それじたいが、すでに「まれびとの文化」なのだ。であれば、折口氏のいう「まれびとの文化の起源は神や貴人に対するもてなし(饗応)にある」という説にいかなる説得力もわれわれは認めない。
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ちなみに、「雛人形」は、もともとは男女一対の人形のことをいったのだ、と折口氏は説明してくれている。つまり「ひな」とは、「男女一対」のことである、と。
そうでしょうか。
「ひな」といえば、「鄙(ひな)びた里」という言い方もします。田舎、隠れ里、のこと。このふたつの「ひな」が、まったく別の意味だとは思えない。折口氏は、鳥の「ひな」も含めてぜんぜん関係ないというのだが、同じ発音をして同じでないわけがないじゃないですか。やまとことばは、意味が最初にあるのではなく、まずそう発声する「感慨」があって、そこから生まれてきたのだ。
「ひ」は、折りたたまれて秘匿されてある状態やもののこと。
「な」という発声には、息と声が全部出て行って、体の中が空っぽになるような心地がある。「汝(な)」とか、「あなた」「こなた」「そなた」「どなた」の「な」。「方向」のことです。「なあ」と呼びかける。「な嘆きそ」といえば、けっして嘆かないでくれという意味で、この場合の「な」は嘆かない方向を強調している。「泣く」とは、魂が抜けてゆく状態。「鳴く」は、その声がする方向のこと、方向を知らせてくること。
鳥の「ひな」とは、卵の中に隠されてあった生きもののこと。
「ひな曇り」とは、薄日が差している曇り空のこと。その薄い雲の向こうに太陽が隠されてあることがそこはかとなく感じられる、ということでしょうか。
「ひな」とは、隠されてある場所やものの方向に気づく(あるいは探索する)感慨の表象。
雛人形」は、昔はただの紙人形だったらしく、であればその意味は、折りたたまれて大事にしまわれてある人形ということになる。日本列島では、そのような「不在」にたいする感慨が大切にされ、それが言葉として表出されていった。
雛人形の「ひな」も、鄙びた里の「ひな」も、ひなどりの「ひな」も、語源的には、同じといえば同じなのだ。「ひな」という言葉の響きに、「カップル」というようなニュアンスを感じますか。
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人間は未来の計画のために祭りをするのか、それとも何かが終わったことの解放感を祝ってするのか。
新嘗祭なんていまや天皇家だけの行事になってしまったけど、「にひなめ」という言葉は、庶民の暮らしから生まれてきた言葉だと僕は考えている。気取った意味なんか、何もない。語源的には、新しい収穫を味見するお祭り、というだけのことです。
庶民にすれば、収穫の終わった秋こそ、一年でいちばん気持が解放され、昂揚感を覚える時期なのです。「祭り」のひとつもしたくなるでしょう。権力者が未来の計画のために祭りをするとすれば、民衆は何かが終わった解放感を祝って盛り上がる。だから秋祭りは、民衆の祭りなのだ。
日本列島の古代人は、「今ここ」の物事が完結し終わることの解放感をカタルシスとして生きていたのだ。
その解き放たれることの喜びから、収穫後の新嘗祭が生まれてきた。
われわれだって、ひと仕事終わったら、ビールの一杯も飲みたいじゃないですか。それと同じです。
黄色く実った稲は、彼らに、土の中に秘匿されてあるものがあらわれてきた、という感慨をもたらしたのかもしれない。「秘匿されてあるもの=不在」に対する感慨、やまとことばも日本列島の信仰のかたちも、おそらくここから生まれ育ってきた。