再考、前方後円墳Ⅱ

「みそぎ」とは、「みずをそそぐ」ということだろうか。水に流す、という。言葉は、意味として発生したのではない。あとになって意味が加わってくるのが、言葉の歴史なのだ。単純に、水で体を洗うこと、それが「みそぎ」という言葉の根源であるのだろうと思えます。
日本列島で暮らす人間は、先験的に水にたいする畏れがある。それは、海に閉じ込められたこの地で、水平線の向こうはわからない、もう向こうに行くことはできない、という縄文人が体験した絶望をトラウマとして持っているからだ。
水は、われわれが行くことのできないこの世の果てとつながっている。水には、神の神聖が宿っている。水が、この世の穢れを洗い清めてくれる。
であれば、沼の水が干上がってあらわれてきた奈良盆地の土地は、まさに神によって洗い清められた処女地として彼らの目に映じたことでしょう。奈良盆地の人々は、水が干上がってあらわれてくる土地に、ことのほか愛着があった。彼らにとって、沼地を干拓してゆくことは、ひとつの「みそぎ」だった。
そしてそれは、山の土を削って埋め立てるのではなく、あくまで水が引くことによってあらわれてくる、水で洗い清められた土地でなければならなかった。おそらくこの嗜好性が、濠のある前方後円墳のムーブメントを生み、湿地を干拓してゆく土木技術の発展をもたらした。
前方後円墳をつくることは、奈良盆地に住み着いていった人々のひとつの「みそぎ」であり、そこから「陵(みささぎ)」という言葉も生まれてきたのだろうと思えます。
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「はか」という言葉は、稲作農耕からきているらしく、「計(はか)」とか「量(はか)」というように田の面積や区画や田植え・稲刈りのの仕事を、ひとはか、ふたはか、と計量する単位だったのだとか。たとえば、田の四分の一を区切って、今日はこれだけ刈り取ってしまおうと思えば、その四分の一が「ひとはか」になる。そうして、仕事が順調に進むことを「はかどる」という。
つまり、ひとつの完結した世界やもののことを、「はか」といった。「はか」とは、完結しているさまのことです。
中国語では、それを「完」という。「か」という発語は、完結しているさまを表現している。それに「ん」をつければ、もうだめを押している感じです。完璧に完結している。
それにたいして、やまとことばは、「か」の上に「は」を置いて、「はか」と発語される。「は」は、「はー・・・」とため息つくように、たよりない感慨から発せられる。そのたよりなさに、「か」とつなげて、「はか」という。もともとあいまいでたよりない世界をあえて完結させてしまうこと、完結していると納得してしまうこと、それが、「はか」という発語の構造です。
海に閉じ込められたこの日本列島を、あるいは四方を山に囲まれた奈良盆地を「ここが世界のすべてだ」と深く認識すること。それらは、「世界のすべて」と認識するにはいかにもあいまいでたよりない対象です。それでもそれを、深く「これが世界のすべてだ」と深く納得してしまう。そういう感慨から、「はか」という言葉が生まれてきた。
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「はかない」といえば、とうぜん「はか」が「ない」ということになります。しかし、もともと「はか」という言葉じたいが「はかない」さまを表現していたのであり、それがだんだん大陸的な「完」の意味を持つようになってきたために、あらためて「ない」が付け足されたのでしょう。したがって、付け足されて「はかない」と言っても、やっぱり、そういう状態で完結していることを表現している。
たとえば、何を言っているのかわからないようなひっそりした声は、「はかない声」ではあるが、それじたいに完結したある世界を感じたからわざわざ「はかない」と形容するのであって、ただの小声という意味とはちょっと違う。
「はかない」ということ、それじたいがひとつの完結した世界なのです。「はかない命」といえば、ただの短く価値のない命としてかたづけられているのではなく、「はかない」と形容せずにいられないほどにそれじたい完結した命として愛惜されている。
つまり、より「小さな世界」すらも完結したものとして認識してしまう感慨が、「はか」という言葉を生み、さらに「はかない」と言って認識しなおすようになっていった。
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人の死も、そのあと天国や極楽浄土に行くのではなく、そこでもう命が完結したのだと認識することが、この国の死生観だった。だから、そういう死者を葬る場所を「墓(はか)」という。
イザナギは、千人で引いてやっと動くという巨大な千引石(せんびきいわ)で、死の世界の入り口である黄泉比良坂(よもつひらさか)をふさいでしまった。そのときから、われわれの命は、この生において完結したものになった。
巨大な前方後円墳もまた、ひとつの「千引石」にほかならない。初期の前方後円墳のほとんどは、墳丘がたくさんの石で覆われ、遠くから見ると、それじたいひとつの大きな岩のように見えたらしい。それは、権力を誇示するためにつくられたのではなく、人々の死生観によるものであったのでしょう。
奈良盆地とその周辺の前方後円墳の、いかにも不自然な多さと大きさは、支配者の権力や財力だけでつくれるものではない。それは、奈良盆地の住民が、みずから進んでその造営に参加していったことの結果なのだ。
巨大な前方後円墳は、権力の支配が確立される前の段階であらわれ、確立されることによってつくられなくなっていった。7世紀になって「大化の薄葬令」というのが出され、それによってひとまず古墳時代が終わった。もう大きな古墳をつくってはいけない、そんなことより米作りに励め、というわけです。言い換えれば、そういう法令が出されたということは、それ以前の古墳造営が権力の命令ではなく、住民の自発的な意志の上におこなわれていたことを意味しているはずです。