再考・前方後円墳Ⅲ

「はか」という言葉の感触を、もう少し考えてみます。
「は」は、たよりなくよくわからないさま。
「か」は、完結しているさま。
このふたつが合わさって、たとえたよりなくよくわからないものでも完結していると認識してしまっている心のさまから、「はか」という発語が生まれてきたらしい。
海に閉じ込められた日本列島においては、ひとつのまとまりをあらわす「はか」という言葉に、すでに「はかない」という意味がこめられていた。「はかない」ものを「はか」と言っていたのだ。この国土も、命も、はかないものにすぎないと知りつつ、それでもそれを完結した「はか」であると深く納得して生きていた。
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「ばか(馬鹿)」という言葉の語源は、おそらく「はか」からきている。「ばかばかしい」は、「はかばかしい」が転化したものだろうと思えます。
しかしわれわれは現在、「はかばかしくない」と言っても、「はかばかしい」という言い方はほとんどしない。
「はか」以上の「はか」、すなわち、世界が大きく完結しているさまを「はかばかしい」という。世界には果てがない、という認識で世界が納得される状態、とでもいうのでしょうか。だがこの国には、そんなふうに認識できる条件は存在しない。「はかばかしい」という認識がないから、「はかばかしい」とはほとんどいわない。この国においては「はかばかしい」ことが「はかばかしくない」ことであり、そういう感触から「ばか」という言葉が生まれてきたのだろうと思えます。
「ばかばかしい」といえば、途方もないことです。つまり、世界には果てがないと認識することを拒否して、「ばかばかしい」という。そんなことがあるものか、この世界はこの世界として完結しているのだ、という気分で「ばかばかしい」と言う。「ばかでかい」の「ばか」は、「途方もない」という意味でしょう。
この世界は、「はか」として完結している。完結しないで「はてがない=はかがない」などということがあるものか、そういう気分で「ばか」と言う。「はかばかしい」ことは、「ばかばかしい」ことなのだ。
「はかばかしくない」とは、「はか」と認識できない状態であり、それは、「はか」という認識が無際限にある「はかばかしい」状態と同じなのです。
この世界が果てしなく移り変わってゆくさまを、「はかない」という。また、人の一生など一瞬のように消えてしまうことを、「はかない」という。そういう「はか」がない状態を「はか」と認識してしまう感慨から、「はかない」という言葉が生まれてきた。
「はかない」という感慨は、ひとつの不安です。しかし「はかない」と発語することは、それを「はか」と認識してしまうカタルシスをもたらす。「はかない」ことが「はか」なのだ、という認識。「はか」という言葉が、もともと「はかない」という感触を持った言葉だったのです。「はかない」と言うことは、「はか」と言っていることと同じなのだ。
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日本列島の古代人が「墓」をつくるにさいして、「あの世」に通じるものだという意識はなかった。この生が完結したさまとして「墓」と言っていたのだ。少なくとも極楽浄土がどうのと教える仏教が入ってくる前の前方後円墳の段階までは、そういう意識で墓をつくっていたはずです。それは、支配者においても同じであり、そこが、この国の巨大な前方後円墳と、秦の始皇帝陵やピラミッドとの、墓をつくるコンセプトの決定的な違いです。この国の古墳時代に、死んだら天国にいける、などという思想はなかったのです。
この国の古代においては、たとえ支配者であっても、「あの世」や自分が死んだあとのことのために墓をつくろうというような発想はしなかったはずです。棺おけの中がすべてだった。棺おけの中が、「墓=はか」だった。だから、たとえば仁徳陵にだって、百年後に死んだ人の石棺も埋められていたりする。棺おけの中がすべてだったから、その前方後円墳が誰のものであるかなど、じつにいいかげんだったのです。
たぶん宮内庁も、そういうことを知っているから、研究者に調査をさせないのでしょう。明治時代には、国だけで古墳の調査や整備をけっこうやっているのです。そういうときに、どの古墳も主人(被葬者)があいまいなものばかりで、これでは古墳の権威を守れないと思ったのかもしれない。
つまり、支配者にとって、大きな古墳をつくるメリットなど何もなかった。そうやって自分の権力を死んだあとまで誇示するようなものをつくってしまえば、自分の命が完結しないということを意味するのであり、それでは「墓=はか」にはならないのです。彼らがこだわったのは、あくまで石棺と副葬品です。自分の使っていたものは、ぜんぶ自分といっしょに埋めろ、と言い残したらしい。というか、残された者たちは、死者の命を完結させるために、それらをぜんぶいっしょに埋めてやろうとした。埋めてしまえば、自分の権力の威光は残らない。そうすることによって自分の権力を誇示できる相手は、盗掘者だけです。
たとえば、死者が持っていた大陸製の鏡とか刀などはいわば権力の象徴であり、それらは、権力を誇示するためなら、次の権力者が引き継ぐべきものであるはずなのに、惜しげもなくぜんぶ埋めてしまっていたのです。
すなわち、死んでゆく者は、権力を誇示することよりも、墓とともにみずからの命が完結することを願った。古代人にとって死者を弔うことは、あくまで土に埋めることそれだけであり、たとえ強大な権力を持った支配者であっても、ばかでかい前方後円墳とともに終わりのない命を生きようとなどしなかったのです。そういう発想をするのは、極楽浄土を説く仏教が入ってきてからのことです。
また、やまとことばにしても、仏教や文字が入ってきて「はか」という言葉の意味があいまいになり、つまりこの生が「はか」と形容できるものではなくなってしまったために、あらためて「はかない」と言わなければ、「はか」と発語することのカタルシスにたどり着けなくなっていったのだろうと思えます。
言い換えれば、古墳時代においては、権力者でさえもこの生の「はかなさ」を知っていたのであり、その前方後円墳というモニュメントは、あくまで奈良盆地とその周辺の人々が沼地に住み着いてゆくための「みそぎ」として成り立っていたのだと思えます。