閑話休題・映画の話

ヴィンセント・ギャロの「バッファロー・66」は、最高にキュートな映画だった。
太めで大根足のヒロインも、いろいろ言われているが、僕には花も実もある美貌に見えたし、とくに目の表情がきわだってチャーミングだった。彼女がボーリング場でとつぜん意味もなくタップダンスを踊りだすシーンとか、男とプリクラみたいな写真をとるときのはっとするような華やかで愛らしい笑顔とか、この女優をきれいにとってやろうというギャロの心意気とセンスには、何度でも拍手したい気分です。
で、大当たりしたその作品の次回作が、「ブラウン・バニー」、やりきれない過去を背負ったオートバイのレーサーの話で、前回に負けないくらい見ごたえのある映画に仕上がっていました。
そしてこの映画の売り文句が、いちおう「衝撃のラストシーン」となっているのだが、ただ映画通を気取った一部の軽薄な連中は、あんなストーリーなど最初の15分でわかった、とえらそうに言っていました。
わかったから、それでどうしたというのか。そんなレベルでしか映画を味わえないおまえらの想像力の貧しさこそ問題だろう、と思う。
たとえば小津安二郎の「晩春」や「秋刀魚の味」なんか、見る前からぜんぶストーリーはわかっている。それでもわれわれは、時間を忘れて画面に見入ってしまう。ギャロの映画だって、見ていて思わずため息をついてしまうようなシーンが、いっぱいある。
「もう、生きていらない・・・」という感じで主人公の男が泣いてしまうシーンは前回もあったのだが、なんか素人っぽい演出だなあと思いながら、それでもどこかキュートで、つい目が離せなくなってしまう。
映画をつくる「こころざし」みたいなものが、人にはないものとしてちゃんと持っているのですね。だから、素人っぽいことをしても、素人とは違う。
近ごろの外国の映画監督の中には、日本映画の監督から影響を受けた人が結構多い。S・スピルバーグやJ・ルーカスは、黒沢明のシンパで、ジム・ジャームッシュヴィム・ヴェンダースは、小津安二郎派。ヴィンセント・ギャロは、たぶん後者のタイプなのだろうと思えます。
で、問題のラストシーンなのですが、映画のストーリーとして衝撃的かどうかはわからないが、たしかに衝撃的なラブシーンでした。くわしくは言いませんが、あのシーンをあそこまで清潔にせつなく撮れるのは、もうギャロのほかにいない、と思いました。
「こころざし」の問題ですよね。そのこころざしがギャロの感性をつくっている、ということがよくわかるラブシーンでした。
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では彼は、いったいどんな「こころざし」でそれらの映画をつくろうとしたのか。
バッファロー・66」にしろ「ブラウン・バニー」にしろ、どちらにも「生きてあることのいたたまれなさ」がひしひしと伝わってきます。おそらくそれが、ギャロの映画づくりのモチーフなのだろうと思えます。
現代社会、すなわち進歩こそ正義であるという近代合理主義のコンセプトで動いている世の中において、世界中の誰もがどこかしらでそういう「いたたまれなさ」を感じながら生きている。だからエコロジーのムーブメントも起きてくるのだし、だいたい幸せを欲しがったり無際限に商品にたいする購買欲を募らせたりすることじたいが、「いたたまれなさ」から逃れようとする衝動であるのかもしれない。
いやいや、もう普遍的に、人間として生きてあることじたいが、真夏の焼けたトタン屋根の上に裸足で立たされているような事態だ、ともいえるわけで、そういうところでギャロの映画がうけているのでしょうか。
彼じしんが演じる彼の映画の主人公は、なんだか現代社会の生贄の羊のように見えてしまう。もっと大げさに言えば、十字架を背負ったキリストを連想させるような、そんなテーマをごくさりげなく小市民的に、そしてあくまでエンターテインメントとして見せてくれる。
しかしまあ、その「いたたまれなさ」は、このブログの現在のテーマである「漂泊」の心性にも通じているのですね。そういうものを抱えていなければ、誰もさすらうことなんかしない。海に閉じ込められた日本列島に立つ縄文人が、水平線を眺めながら「われわれはもうどこにも行けない」とつぶやくほかないような絶望は、ギャロの映画の主人公が「もう生きてゆけない」とつぶやく「いたたまれなさ」でもあるように思えます。
そういえば、「バッファロー・66」も「ブラウン・バニー」も、ロード・ムービーだった。