古事記の世界観

古事記」をどう読むか。いろいろあるだろうが、縄文時代から弥生時代にかけて山野を漂泊していた日本人が平地に定住していったことから生まれてきた話として読むこともできる。さすらう民が平地に定住してゆくためには、あのように荒唐無稽な神話が必要だったし、そういう話が生まれてくるような物狂おしさがあった。
彼らは、この生の「現実=中心」ではなく、「究極=果て」を語り合っていた。そこを深く納得することによって、はじめてこの生の「すべて」が完結する。その話は、この生であらねばならないと同時に、この生であってはならない。古事記の物語には、そういう逆説と向き合う心の生々しさと理不尽さがある。
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それは、噂話の集大成なのだろうと思えます。みんなで語り伝えられていった話です。そういう場では、どんな話が盛り上がって、よりリアリティを持ってくるか。本を書いたり読んだりする孤独な行為とはちょっとちがう。
声は、文字と違ってその場で消えてしまうから、その内容を正確に表現しようと思えば思うほど、荒唐無稽なほら話になってゆく。これはもう、仕方のないことです。
たとえば、1メートル85センチの大男が、といっても、誰もがそれを大男と受け取るとはかぎらないし、小柄な女子供と大柄な大人では、その大きさにたいする感覚もちがう。しかし、3メートル、といえば、みんなが大きいと驚く。とりあえず3メートルといっておいたほうがその場は盛り上がるし、説得力も持つ。古事記には、そういう構造がある。
しかもそれを、嘘だと承知で、話す側と聞き手が馴れ合っているのではない。誰もがそのまま信じてしまうような成り行きというか、メカニズムがある。
本気でそう信じ込みながら、そういう話になっていったのだろうと思えます。
逆にいえば、それを解釈する研究者たちは、自分が解釈したいように解釈できてしまうふくらみが、その話にはある。
僕が知りたいのは、そういう合理的な解釈などではなく、そういう話をつくりあげていった古代人の心のありようです。それに触れなければ、古事記に触れたことにはならないと思う。
それを深く信じ、カタルシスを体験してゆくという臨場感、そんなものにわれわれは触れることができるだろうか。
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なにしろ日本人は漂泊する民族だから、噂話は、野火のようにあっという間に伝わる。そして噂話だから、人から人へと伝わりながら、どんどん脚色されてゆく。そうやって奈良盆地にたどり着いた話を、奈良盆地の人たちが神々の話としてまとめ上げていった。「旅人」の噂話を聞いた「村人」たちの想像力が生み出した物語、まあそんなところではないでしょうか。
「世界の果て」のことを耳にしたことの素直な感動、ですね。その記述には、多少はそのころあった出来事のことや社会の構造がうかがえる部分もあるのだろうが、そういうところを推理してゆくよりも、そういう話が信じられてゆくその場の空気というか、「あや」というか、構造というか、そんなことが気にかかります。
ただもう、自分たちの憧れをそのまま託すことのできる神々の話を、みんなしてつくりあげていった。だから、いつまでも語り継がれていった。世界の果てとしての神は人間であって人間ではないのだから、その話は、荒唐無稽であればあるほどリアリティがある。荒唐無稽であればあるほど、信じることができる。嘘でもまるごと信じてしまう村人と、嘘を平気で語る旅人、この関係によって神々の話として育ってゆき、信じられ語り継がれていったのだろうと思えます。彼らは、嘘を共有していったのではない、どちらも神が伝えてくれる話として信じていっただけです。彼らのイメージに、嘘などというものはなかった。頭に浮かんだことはすべて、神が伝えてくれる世界の果ての真実だった。世界の果てに、嘘などというものはない。すべてが真実だから、「世界の果て」なのだ。嘘だとして排除してしまったら、「世界の果て」でなくなってしまう。
彼らにとっての「世界の果て」であるという感慨は、あのような荒唐無稽な話でさえもまるごと信じてしまうくらい、深く確かなものだった。
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現代人が、そんなことありえない、と思ったとしても、それは知能が高いからではない。この生を完結させてゆく思考の手続きが貧弱だからだ。なぜなら現代人の生活は、この生を完結させないことの上に成り立っている。それでひとまずいい暮らしができているのだが、日本列島で生まれ育った人間がその観念だけでこの生をまっとうしてゆくことは、かんたんなことではない。古事記を語り伝えた古代の人々に比べて、われわれの生死観はあきらかに混乱してしまっている。
古事記の物語はまったくもって荒唐無稽であるが、「ぜんぶありだ」というその語り口において明快そのものであり、けっして混乱はしていない。
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たとえば、池の水しか見たことのない人が、海には高層ビルほどの高さのうねりがあるのだという話を聞いて、信じることができるか。信じない人がほとんどだろうが、中には「へえ、そうか」と信じる人もいる。
それは、科学的思考がどうのという問題ではない。「信じる」という心のはたらきの問題です。
さすらい人である古代の奈良盆地の人々は、住み着くことの困難さを全部受け入れていた。彼らは、「よごと(善)」も「まがごと(悪)」も、すべて受け入れていた。そういう心で古事記の物語が発想されていったのであれば、知らないことだから信じない、というような態度はとらなかったはずです。この世界が神の力で動いているのであれば、われわれが発想することは、すべて神から知らされたことだ、そう納得するのにためらう必要など何もなかった。
彼らは、現代人より科学的思考が劣っていたのではない。ただもう、信じるという心のはたらきがわれわれよりはるかにダイナミックだっただけだ。