祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」18

弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地は、集落間の連携が、もっともダイナミックに起きている地域だった。
弥生時代末期の「纏向遺跡」も、そのあとに巨大な前方後円墳が次々に現れてきたことも、そういうことを証明している。
彼らは、よその土地からやってきた人間に対する敵対感情が希薄だったし、自分たちも、よその土地に出かけてゆくことにためらいがなかった。
だから、大和朝廷の建物には城壁がなかった。
人と人も、国と国も、連携できるものだと思っていた。
ヤマトタケル熊襲征伐や蝦夷征伐の話に象徴されるように、そのころ、軍隊が遠方まで遠征してゆくということは、奈良盆地の共同体(大和朝廷)だけがしていたことだった。そしてこのことを、古事記日本書紀では「やっつけに行った」と面白おかしく語られているが、大和朝廷が滅ぼした国など、列島中のどこにもなかった。連携=同盟関係を結んで帰ってきただけだった。
だから、東北に「まつろわぬ」者たちがいたことは、彼らにとって信じられないことだった。
大正から昭和にかけての朝鮮併合政策にしても、そういう歴史的な伝統がある。
日本列島の住民は、良くも悪くも「関係」に対して楽天的なところがある。
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人と人、社会と社会は、連携できるものと思ったらいけないのか。
ほんらい連携できない人間どうしが連携してゆくのだから、いろんな取り決めや駆け引きが必要なのだ、と思わねばならないのか。もし、初期の大和朝廷の人々がそう思っていたら、文字の使用は、大和朝廷の成立と同時に採用されていたことだろう。
文字のない古墳時代の朝廷と民衆の関係なんて、おおよそアバウトなものだったはずだ。
弥生時代古墳時代の日本列島が部族や集落間の紛争ばかりしていたのなら、現代のこの国の政府だって、今よりずっと駆け引き上手な外交をしているに違いない。この国には、そんな伝統はないのだ。
この国の人間は、人と人、社会と社会は、連携できるものと思っている。
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纏向遺跡には、当時の列島中の土器が残っている。
だから、列島中から運ばれてきたのだ、といっている人がいる。
そんなこと、あるはずがないでしょう。
そのころ、集落の外に荷車の通れる道などなかったのですよ。じゃあ、一人一人が担いできたのかといえば、そんなしんどいことは誰もしたがらなかっただろうし、そんなことを命じることのできる権力もなかったし、山また山の細いそま道で、そんなことができるはずもなかったに違いない。
彼らは、手ぶらで歩いても転げ落ちるかもしれないような山道を歩いて旅していたのですよ。
だったら、列島中から人が集まってきて、纏向遺跡の工房でつくって焼いていただけの話でしょう。
強大な権力があって、民衆を牛馬のごとくこき使っていたなんて、どうしてそんないやらしいことを考えるのだろう。
纏向遺跡の人々は、よそから旅をしてきた者を迎え入れ住まわせてやる施設を持っていたらしい。
そして旅人は、一宿一飯の恩義で、故郷の土器を作って見せた。
纏向遺跡の人々は、人と人、社会と社会は、連携できるものと思っていた。
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「連携できる」とは、「語り合うことができる」ということだ。
風土記」という土地の「伝説」を記した文献は、全国各地に残っている。しかし伝説が純粋な神話へと昇華・発展していったという例はあまりない。
奈良盆地古事記は、三巻のうち上巻は純粋な神話で、中巻は伝説と神話が交じり合ったもの、下巻は伝説の範疇、といえるのだろうか。
中巻・下巻は朝廷の要請でつくられた天皇の話で、上巻の焼き直しのようなかたちになっている、ともいわれている。
古墳時代の民衆が、これらのどれだけの部分を語り伝えていたのかという判断はむずかしい。彼らにとって「天皇」は、すでに共同体の結束に欠かせない象徴的存在であり神でもあったはずだから、みずから天皇のことも語り合っていたに違いない。
文字がなかった時代、天皇家系図は、語り継ぐことをしていた民衆が所持していた。
天皇家は、民衆の語り伝えを掬い上げてみずからの系図にしていただけだろう。支配者に神話を生み出す能力はない。それは、民衆の「語らふ」行為のダイナミズムから生まれてくるのだ。
ともあれ、奈良盆地以外の地域が自分たちの地域のことだけしか語り合うことができなかったのに対して、奈良盆地の民衆は列島中のことを話題にしていた。それは、列島中から人が集まってくるところだったからだ。そしてそれらの人々と大いに語り合い、それらの人々の故郷のことを大いに聞きたがった。そういう「語り合う」場を、彼らは持っていた。
奈良盆地とほかの地域とでは、「語らふ」ということのダイナミズムに格段の開きがあった。
それは、話のスケールだけでなく、ほかの地域ではひとつの大きな集団の伝説がそのまま集団内部で語り伝えられていただけだが、奈良盆地の場合は、その伝説が無数の小集落を駆け巡り「神話」になっていった。
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神話は、人々の「語らふ」という行為の連鎖から生まれてくる。
山で隔てられた二つの地域が連携し、語らいの場を持ってゆくことはむずかしい。
弥生時代は、山を隔てたら、もう別の国だった。ひとつの平地にひとつの国が作られていった。
それに対して奈良盆地は、平地でありながら、集落間が湿原で隔てられていた。この湿原は、微妙だった。集落を隔てつつ、なお連携を可能にする場所でもあった。隣の集落は、そう遠くはない。小舟で行くこともできるし、少し迂回すれば歩いてゆける場合もあった。
そして各集落は、規模が小さすぎて自足してゆくことが不可能だった。
自足することが不可能で連携が可能であるのなら、連携してゆくに決まっている。
古代の吉備や出雲や九州では、自足することが可能なひとまとまりの大きな共同体がつくられていった。しかし奈良盆地では、自足できない「嘆き」を共有しながら小集落間の連携をつくっていった。その連携の規模が、他のどの地域の大きな共同体よりもまさっていたのだ。圧倒的にまさっていたのだ。
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同じ集団が同じ場所で語り継いでいるだけなら、なかなか「神話」のレベルまでたどり着けない。
「そんなこと嘘だ」という人間がいる場では、神話は生まれない。
誰もが「ああそうか」と、感心しうなずいていった。たとえば遠い地からやってきた旅人の遠い地の話は、誰もが「ああそうか」とうなずくばかりだろう。そういう「語らい」の場を体験することの醍醐味を奈良盆地の人々は知っていた、ということだ。
それは、話をつくり上げることの醍醐味だ。それによって「語らい」の場が盛り上がるということを、彼らは、ほかのどの地域の住民よりもダイナミックに体験していた。
奈良盆地の人々は、事実を伝え合ったのではない。みんなして話をつくり上げてゆこうとしたのだ。
彼らは、自分たちの土地のことではなく、よその土地のことを語り合った。そして、自分たちが存在しない遠い過去の時代のことを語り合った。そういう「外部」を語り合った。そういう外部では、ありえないことが起きる。ありえないことが起きることが、外部であることの証しだ。ありえないことだから、信じることができる。
「外部」と遭遇することの不可能性、それを信じてゆくことによって「今ここ」と和解してゆく。だから、「外部=神話」は、ありえない話であらねばならない。そういう「超越性」を信じてゆくことの醍醐味が、奈良盆地の暮らしにはあった。
ただ、ここでは、そういう「超越性」がどんなものであったかということはあまり問題にしたくない。「超越性」が語られていた、とひとまず納得しておけばいいだけのこと。われわれが気になるのは、「語らふ」という人と人の関係はどのようにして止揚されているのか、ということだ。