祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源(うたふ)」17

奈良盆地においては、集団の「歌謡」が「神話」に発展してゆくということはなかった。
歌謡と神話は、もともと性格を異にするものであるらしい。
それは、「歌ふ」ということと「語らふ」ということの違いだろうか。
古代の日本列島においては、この二つの行為が、純粋なかたちで別々に体験されていた。
まず、縄文時代のことから考えてみよう。
そのころ男たちの小集団は、山野をさすらいながら、山の中の女子供が暮らす小さな集落を訪ね歩いていた。男たちにとってそこは、いわば「遊里」のような場所だった。
男たちがその集落を訪ねていったとき、まず集落の空き地で「歌垣」が催され、そこでペアが決まっていった。「歌(うた)ふ」ということばの語源は、おそらくそこにある。
男が「あの子が欲しい花いちもんめ」というような歌を送り、女が「うれしいわ、しあわせよ」とか「あんたなんかいやよ」とか、そんな歌を返す。
歌垣は、男女の「かけあい」だから、「かがひ」ともいった。歌垣の「がき=かき」は、「かけあい」という意味。「橋をかける」という、そんなようなニュアンスだろう。
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「うたふ」の「う」は、「終結」の語義。「うっ」と息がつまる。そういう感慨からこぼれ出る音声。
「た」は、「立(た)つ」「足(た)る」の「た」。かたちが出来上がること。すなわち、表現すること。
「うた」とは、最終的な感慨(決定)を表現すること。あの子に決めた、あの子が欲しい、と表現すること。うれしいわ、とか、あんたなんかいやよ、と表現すること。
「ふ」は、「重(かさ)ねる」の語義。「踏(ふ)む」は、足を地面に重ねること。「伏(ふ)す」は、体を地面や床に重ねてゆくこと。「振(ふ)る」は、前の動きと後の動きが重なり繰り返されること。「としをふる」といえば、春夏秋冬の一年のときが重なってゆくこと。「雪が降(ふ)る」とは、雪が地面に重なってゆくこと。
「うたふ」とは、最終的な感慨の表現を重ね合わせること。
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鶴田浩二という役者は、耳に手を当てて歌うのがトレードマークだった。そうやって自分の声を聞きながら歌った。歌うとは、歌う声と聞く声を重ねてゆくことだろうか。歌う人がいて、聞く人がいる。ひとりで歌うときでも、自分自身が聞く人になっている。
行為を表す動詞の語尾に「ふ」がつくことが多い。「吸ふ」「食ふ」「払ふ」等々。行為とは、対象世界と関係してゆくことであり、すなわち「関係する」とは「重ねる」ことだ。
したがって「うたふ」ということばが歌垣から生まれてきたとは、一概にはいえない。歌垣がはじまるずっと前から人間は「うたふ」という行為をしていたわけで、ただ、歌垣は、そうした行為のカタルシスがもっとも鮮やかに体験できる場ではあったに違いない。
「うたふ」という行為は、おそらく人類が、「ことば」として音声を発することを覚えたときからはじまっている。
音声を発すれば、それとともに体の中が空っぽになってゆく心地がする。直立二足歩行することは、その姿勢の不安定さや危険を抱え込むことであり、人間は、根源的にそうした身体に対する「嘆き」を抱えている。だから、「ことば」という音声を発することがカタルシスになっていった。
そして音声を聞くという行為もまた、その音声に心を奪われて自分の中が空っぽになってゆくカタルシスをもたらしてくれる。人と人のあいだでそういうカタルシスが重なって(共有されて)ゆくことを、「うたふ」という。古代人は、そういうことをちゃんと無意識のうちに自覚していたから「うたふ」といったのだ。
人類のことばは、その起源において「歌」であった、ともいえる。
「歌垣」は、そうした歴史のひとつの「到達」だった。
「うたふ」という行為は、人と人の思いが重なってゆくことのカタルシスをもたらす。そういうことが体験される場から、「うたふ」ということばが生まれてきた。
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ちなみに、現在の学者たちが考えている「うたふ」ということばの語源のもっとも有力な説は、「打ち合う」がつまって生まれてきたことばだ、ということになっているらしい。手拍子の手を打ち合うこと、それが語源なんだってさ。
まったく、何をとんちんかんなことをいっているのだろう。
人間は、歌うよりも前に手を「打ち合う」ことを覚えたのか。手を打ち合っているうちに、歌が生まれてきたのか。
そうじゃないだろう。歌っているうちに、歌を盛り上げるために手を打ち合うことを覚えていったに決まっている。
焚き火を囲んだ原始人の集団が、ただ黙って手を打ち合いながらそれを歌の代わりにしているなんて、そんな気味の悪い景観など、われわれはよう想像しない。
だいいち、手を打ち合うことと声に出して歌うことは、別の行為だ。打ち合うことは打ち合うこと、歌うことは歌うことさ。歌うということそれ自体をあらわすことばを古代人は生み出すことができなかったなんて、そんなバカなことがあるものか。
彼らにとって歌うことは、手を打ち合うことよりももっと本質的でもっと大事なことだったのだぞ。
音声を発することのカタルシスというものがある。人類がそれを体験したのは、もう気が遠くなるくらい遥かな昔のことだ。はじめにそのカタルシスがあった。そこから「手を打ち合う」という補助的な行為を覚えていった。
「打ち合う」が「うたふ」の語源であるだなんて、イメージ貧困にもほどがある。まったく、いまどきの言語学者の脳みそなんて、腐り果てている。
古代人が、どんな思いで「うたふ」ということをしていたのか。その思いに推参しようとすることが、語源を考える、ということだろう。語源は、あなたたちの幼稚で観念的な言葉遊びの手の内にあるのではない。