祝福論(やまとことばの語源)・「神話の起源」16

村上春樹の小説は、たぶん自足してゆくことが主題なのだろうと思います。
二項対立を止揚して、一方を排除しながら自足してゆく。
この世界のリアリティを獲得する(取り戻す)ことが救済だ、という。
それに対して、あの世のことがこの世に現れるというかたちの能の「物語=神話」は、あの世とこの世の対立を無化してしまっている。それは、「この世」を止揚しているのでも「あの世」を止揚しているのでもない。あの世とこの世が融合して、その境目がなくなってしまっている。
それは、すべては「夢幻」である、という思想(無常観)の上に成り立っている。
すべてがゆめまぼろしであるのなら、自足なんかできない。この世界のリアリティなんかどこにもない。
しかし、それこそが自足であり、自足できないことが自足である、というのが無常観であるらしい。
村上春樹の「物語=神話」は、自足を与えてくれる。
能の「物語=神話」は、自足できないことと和解してゆく構造になっている。
無常観の解釈に、「自足」の物語など付与するべきない。「自足」を無化するというか、「自足」をあらかじめ喪失していることが無常観なのだ。
この世界のリアリティなど当てにするな、というのが能の主題なのだ。
不安定な姿勢の直立二足歩行を常態としている人間は、あらかじめ「自足」することを喪失している存在である。
そこから、他者との関係がはじまる。
自足できれば、他者との関係など必要ない。それは、他者との関係を喪失していることだ。
他者との関係によって「自足」を得る、などというのは、詭弁だ。
われわれは、他者との関係によって自足できないことと和解していっているだけだ。自足できないから、他者との関係が成り立っているのだ。
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湿地の中の小高い浮島のような台地に小集落をつくって身を寄せ合うようにして暮らしていた弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地の人々は、あらかじめ集落として自足してゆくことを喪失していた。そんな集団の中に置かれていることはうっとうしくてしょうがないことで、近親相姦ばかりしているわけにもゆかないし、したくもない。
しかしだからこそ、集落間の連携がダイナミックに生まれてきた。
そして、Aの集落のものが語る噂話がBの集落伝わり、さらにCに伝わりDに伝わりしながら広いエリアで共有される伝説になってゆき、やがて「神話」になっていった。
自分たちの集落で自足していたら、「神話」など生まれてこない。話がどんどん伝わってゆくから、そのつど脚色されながら「神話」になってゆくのだ。
古事記のあの荒唐無稽・奇想天外な「物語=神話」は、「自足」することをあらかじめ喪失している人たちによって紡ぎ出されていった。そういう「嘆き」を共有していた人たちの「物語=神話」なのだ。
彼らは、この世界もあの世界もみずからの生もすべてゆめまぼろしであることを知っていた。だからこそ、あんなにも荒唐無稽・奇想天外な「物語=神話」に熱中してゆくことができたのだ。
それは、ゆめまぼろしであることのリアリティだった。だから、本居宣長がいうように、本気でそれを信じていったのだろう。
この世界にリアリティなどない。自足など、誰もできない。われわれは、そういうことと和解できるだろうか。それこそがたぶん、誰の胸の底にもあるこの生の実感であるはずだし、だからこそ人は他者にときめくことができる。
「あなた」にときめいているとき、人は、そういうこの生のかたちと和解している。そうやって、自分のことなんか忘れて、「あなた」に見とれてしまっている。
弥生時代から古墳時代にかけての奈良盆地の人々は、われわれよりずっと他者にときめくことができた。それは、彼らが自足していなかったからであり、自足できない「嘆き」を共有していたからだ。
おそらく、そういう心映えからスタートして、古事記という「物語=神話」になってきたのだ。