天孫降臨と神武東征

九州宮崎の日向に降り立った神の子が、奈良盆地にやってきて天皇になった。神武東征ですね。一部の研究者は、ここから、奈良盆地は途中で外部からの侵略があったのだ、という説を持ち出してくる。しかし、当時の奈良盆地における社会の構造を考えるかぎり、そんなことがあったとはとうてい思えない。
どうしてこんな話を史実とつなげてしまうのだろう。
いちばんたちがわるいのは、騎馬民族征服王朝説です。そんなことがあったのなら、古事記だって神武東征をそこからはじめて、それ以前の天皇の名は、すべて消されているにちがいない。あるいは、古事記のそんな話を、支配者が採用するはずがない。
われわれは、日が沈む西の果てから、日が昇る東、すなわちアマテラスの坐す地を目指してやってきたのだ・・・・・・奈良盆地の人々は、そういう話をつくりたかったのでしょう。彼らは、あくまで自分たちがつくり出した物語を語り伝えたのであり、それは、史実ではなく、彼らの心性をかたちにしたひとつのアイデアなのだ。
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奈良盆地の人々は、弥生時代の、奈良盆地がまだほとんど沼地だったころのことを知っていた。だから、日本列島のことを「豊葦原(とよあしはら)のなかつくに」という。途中から住み着いた者たちの表現ではない。
弥生時代から古墳時代にかけて、葦が生えている沼地近くで暮らしていたのは、おそらく奈良盆地の人たちだけだった。古代人はほんらいそんなところには住みたがらなかったのだが、奈良盆地は、山に囲まれた絶好の景観があった。だから、その条件を克服しながら懸命に住み着いていった。
懸命に、というのは正確ではないのかもしれない。さすらう生活にとって困窮流転はあたりまえの事態であり、さすらいびとであるがゆえに彼らは、沼地の住みにくさを受け入れることをいとわなかった。古代の奈良盆地は、さすらいびとがその山に囲まれた景観に深い愛着を抱いて住み着いていった土地だった。べつに王国を築くためでも、豊かなな暮らしをするためでもなかった。
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彼らは、当時の日本列島におけるどの地域の住民よりもさすらう心性を色濃く持った人たちだった。さすらいびとだったからこそ奈良盆地に集まってきたのであり、だからこそほかの地域に先がけて、いち早く列島中に遠征していったのです。
水浸しの葦原(=沼地)になんか、ほかの地域の誰が住みたがるものか。誰がそれを、自分の国のキャッチフレーズにしようと思うものか。日本列島のことを「豊葦原のなかつくに」と発想できるのは、遠いむかしから奈良盆地に住み着いてきた人々だけなのだ。
沼地が干上がったあとの奈良盆地をよそ者がやってきて掠め取っただけなら、日本列島のことを「豊葦原のなかつくに」とはけっしていわないでしょう。たとえば徳川幕府を開いたあの権謀術数に長けた男のように、ひたすら権力や住みよい土地をほしがるような人間に発想できるフレーズではないのです。古代の日本列島には、あんな人間はいなかったし、あんな共同体もなかったのです。
古代の奈良盆地に、ほかの地域より住みよい経済的条件なんか、何もなかったのです。ただただ、さすらいびとを魅了してやまない山の景観があったというだけです。住みよいことよりも、嘆きながらさすらうことを優先させて生きてきた人びとでなければ住める土地ではなかったのだ。つまり、古代の奈良盆地など、奈良盆地の人々以外に住み着ける者などいなかったし、沼地と沼地の水が引いてゆくのを見続けてきた者たちでなければ「豊葦原のなかつくに」とは言わない、ということです。
奈良盆地で日本最初の朝廷国家が生まれたのは確かなことだけど、奈良盆地が日本でいちばん住みやすい土地であったことなど、歴史上一度もないのです。もしかしたら古代の奈良盆地は、日本列島でいちばん住みにくい土地であったのかもしれない。べつに日向の地から勇んで乗り込んできたわけでもなく、遠いむかしから、みずから天皇をあがめて不安をいやしたり、住居が水に浸からないためのばかでかい古墳をつくったりして、ひたすらこのやっかいな地理的条件と格闘して生きてきただけなのです。
そんな彼らの「豊葦原のなかつくに」という言葉の響きは、重くせつない。