内田樹という迷惑・「生まれてきてしまった」ということ

内田氏のように、大人が、子供たちに向かって「成熟せよ」などというあつかましいことをいっていいのだろうか。
大人になるとは、死ぬのが怖くなることです。
だから、死からできるだけ遠去かって未来のスケジュールに身を浸しながら生きてゆこうとする。あるいは、未来のスケジュールに身を浸して生きているから、死から遠去かってしまう。それは「生まれてきてしまった」という事実に対する認識を先送りすることです。
現代の若者は、そういうことができないから、ニートや引きこもりになってしまう。
子供をつくることは、死んでしまう命を生み出すことだ。それは、取り返しのつかないくらい罪深いことではないのか。
子供が成長して大人になってゆくことは、死へと近づいていっていることです。そういうようすを眺めながら、あなたは「成熟せよ」というのか。
僕は、この胸のどこかしらで、子供に対して「どうか大人にならないでおくれ」と願ってしまう気持がいつも疼いている。そんなことで自分の犯した罪から逃れられるものではないとわかっていても、ついそういう目で子供を眺めてしまう。
人間が死んでしまう生き物であるということを自覚するなら、たぶん、たいていの親が、子供に対して「どうか大人にならないでおくれ」という思いを、その胸のどこかしらに疼かせている。
だから、つい甘くなる。逆に、つい無理をして「成熟せよ」と強がりを言ってしまう。
「成熟せよ」という言い草は、大人の自己正当化の方便なのだ。
成熟することが人間の価値であるのなら、自分の犯した罪は赦免される。しかしそう思うことは、子供に対する暴力だ。僕は、よう思わない。たぶん、たいていの親が、どこかしらで「成熟せよ」と要求することの後ろめたさを抱えている。そういう無意識の不安が子供に乗り移って、ニートになったり引きこもりになったりする。
何の後ろめたさもなくあくまで「成熟せよ」と要求できる親は、子供を自分のロボットにしてしまうか、内田氏のように子供に捨てられるかのどちらかだろう。
親と同じように未来のスケジュールに身を任せてしまえる子供は、たぶん幸せなのだろう。しかしそうやってなしくずしに命をすり減らしたあげくに、過労死したり自殺してしまったりという事態も起きている。運が悪ければ、そういう事態の当事者になってしまう。
人生はめぐり合わせだ。どう生きればいいというようなことをいってもしょうがない。
ニートや引きこもりになることが不幸かどうかなんてわからない。ただ、彼らがそういう生き方を選択してしまったいくぶんかの責任は、親にもある。僕と同じように、どこかしらに「甘っちょろい」罪の意識を抱えているからだ。
迷わず「成熟せよ」と要求できるあつかましさを持っていないからだ。そういう方針を堅持して子供を育ててこなかったからだ。
引きこもりの子供を持つ親の気持を斟酌せよといわれても、僕にはよくわからない。そんな経験をしたことがないからだ。しかし、あなたたちはまだ子供に捨てられていない。それは、あなたたちが罪の意識を隠したり捨てたりしていないからだ。子供は、あなたたちを赦している。そうして、「生まれてきてしまった」という問題を、何とか自分で解決しようとしている。
そんなときに「成熟せよ」などといわないほうがいい。子供はますます傷つき追いつめられてしまう。
自分を見つめる必要なんかない。
子供に必要なのは、神と出会う体験だ。神と言っても、あんまり宗教くさい神をイメージしてもらっても困る。神とは、自分の外にこの世界が存在しているという事実のことだ。その事実と出会って驚きときめくことが、神と出会う体験だ。
宗教が世界を救うのか。そんなことは、あまり当てにできない。しかし人間は、すでに「神」という言葉を持ってしまった。そのことからはもう、誰も逃れられない。神と出会うことは、宗教なんかじゃない。自分の外にこの世界が存在するという事実のことを、「神」というのだ。
自分を見つめ分析すること、すなわち成熟することが「労働」だとしたら、神と出会う体験は「遊び」である。
トランプゲームをして、ハートのエースを引き当てることは、「神と出会う」体験である。
彼女の愛らしい微笑みと出会うことは、ハートのエースを引き当てることだ。
サッカーのゴールシーンを目撃することは、神と出会う体験だ。
そんな、遊びのときめきが積み重なってゆけばいいのだと思う。自分をまさぐる「労働」なんかする必要はないのだ。
成熟したって、「生まれてきてしまった」という問題は解決しない。それは、問題を先送りにしているだけのことだ。それですむ人はそれでもいいだろうが、引きこもりの子供は、「今ここ」で解決しないと先に進めない状況に置かれている。
彼(彼女)はいま、自分を見つめるという「労働」を余儀なくされている。それは、しんどいことだ。
彼(彼女)に必要なのは、おどろいたりときめいたりする「情感」だとすれば、それは、自分との関係ではなく、世界との関係からしか生まれてこない。
生まれてきてしまった自分にいらだつよりも、生まれてきてしまったという事実の上に立って、世界との関係をかみしめるしかない。生まれてきてしまったという事実をかみしめ、嘆くしかない。
嘆くことは、肯定することだ。肯定するから、嘆くのだ。
否定すれば、いらだつ。しかし彼(彼女)は、肯定しようとしている。
彼(彼女)は、まだ親を捨てていない。
親に寄生しているのではない、親を捨てていないのだ。親を、赦しているのだ。
いずれにせよ、現代の若者たちは、「生まれて来てしまった」という問題を、懸命に解決しようとしている。現代のように、少子化した核家族で親子の関係が密になると、どうしてもそういう問題が露出してきてしまう。
「成熟せよ」と言ってすむ問題ではないのだ。そういう言説で救われているのは、「生まれてきてしまった」という問題を抱えていないものたちだけである。