内田樹という迷惑・人間の「理想」と「願い」

この世の中はたとえば内田氏のように幸せで気楽に生きてゆける人たちのものだ、しんどい思いをしている不器用なものなど生まれてきてはいけなかったのだ……という思いが自分の中のどこかにいつもあります。
誰だって幸せで安楽に生きてゆきたいと望んでいるじゃないか、といわれれば、たしかにその通りです。
しかし、生まれてから死ぬまでまったく幸せで安楽のまま過ごせる人など、めったにいない。
誰もが死を前にすれば煩悶してしまうし、人生のどこかしらで多かれ少なかれつらい体験もする。人間の生き方の理想と価値が幸せで安楽に生きることにあるのなら、そういうつらい時期は無意味で無価値な生のかたちなのか。
そうともいえないでしょう。
そういう時期こそ、「あのころが自分の人生の黄金時代だった」と振り返る人もいる。
だいいちわれわれは、生きものとして、腹が減ったとか痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、そんな「嘆き」を日々体験しながら生きている。われわれのこの生は、「嘆き」の上に成り立っている。
われわれは、毎日毎日しんどい思いを体験させられながら生きている。そんな風にして生きていれば、心はだんだんすさんでゆく。誰だって、いつまでも純粋で清らかではいられない。しんどい思いなんかいやだ、と考えるようになってゆく。
そういうすさんだ精神が、幸せで安楽な暮らしこそ理想である、という思想を紡いでいる。
幼いころは、考えもしなかったことなのに。
あのころは、つらいとか安楽だとか、そういう二項対立の問題などなかった。
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幸せと安楽こそ理想だと考える人たちは、「達成感」こそが人間の生きる張り合いになっているともいう。
そうだろうか。
たとえば飯を食ったあとの満腹感と飯を食っているときとどちらが幸せな状態であるといえるのか。
セックスして射精すれば、達成感と満足は得られるが、それは、虚脱感でもある。射精の前のほうが、ずっと充実していたはずだ。
幸せで安楽な暮らしの中にも、満足と隣り合わせの虚脱感がある。
マリー・アントワネットは、「一番怖いのは退屈です」といった。彼女は、虚脱感と隣りあわせで生きていた。退屈が避けられないような状況で生きていた。
あんな暮らしが、人間の理想か。
理想だと思っている人はごまんといるのだろうが、幸せで安楽な暮らしの退屈こそが社会的な貧富の差を大きくしている要因だと気づいていない。退屈を紛らわせるためには、どんどん贅沢しなければならない。
昨日までしがないサラリーマンだったくせに、宝くじに当たったとたん、海外旅行はファーストクラスじゃないと退屈だ、などとぬかしやがる。
しんどい状況に耐えられない人は、しんどいことにならないように、がんばって上手に生きてゆく。ニートやフリーターの若者のように、簡単に会社なんか辞めない。
しかし幸せで上手に生きている結果、いつも退屈や虚脱状態に脅かされて生きてゆかねばならない。
そうやって会社で昇進したり希望の大学に合格したとたんにうつ病になってしまう人がいるし、もともとしんどい状況と和解できる感受性も思想も持っていなかったためにそれに耐えかねて錯乱してしまう人もいる。
この世の中が、幸せで安楽な暮らしをすることが人間の理想であるといい、そういう暮らしをしている人たちばかりになってしまったら、人類は間違いなく滅びる。
彼らは、幸せで安楽な暮らしの退屈にも耐えられないし、しんどい状況にも耐えられない。彼らにはもう、生き延びるすべはない。
人間なんか別に生き延びなくてもいいのだが、とにかく、人間を滅ぼしてしまうのは彼らであってしんどい状況を生きている人たちではない、ということだけは言える。
つらい状況を生きている人がたくさんいるというということが、人間を滅ぼすのではない、生きることのときめきやカタルシスを失った幸せで安楽な暮らしをしている人たちによって、人間は滅びてゆくのだ。
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内田さん、あなたのことですよ。何かにつけてあなたは、「危機回避の能力が人間を生き延びさせる」などといってばかりいるが、つらい状況を避けたがるその弛緩してすさんだ心が人間を滅ぼすのだ。
誰もが幸せで安楽な暮らしをする世の中になり、それを自覚し、それが人間の理想だと考えるのなら、人々にもう「あなたを救いたい」という願いは生まれてこない。
そんなに幸せで安楽な暮らしが人間の理想だといいたいのなら、つらい状況を生きている人なんか、みんな殺してしまえばいいじゃないか。そうすれば、あなたたちが考える理想の社会が、すっきりと実現する。
内田氏は、ニートや引きこもりの若者たちに対して「いいから黙って働け」「将来結婚もできないような人間は生きている資格がないのだ」と声高に自信満々に叫んでおられる。幸せになれないものは生きている資格がないんだってさ。生きていたかったら、幸せになれ、だってさ。だったら、殺してしまえばいいじゃないか。生きている資格がないのなら、殺してしまえばいいじゃないか。
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べつに幸せで安楽な暮らしをしていようといまいと、生きてあることそれ自体が「嘆き」の上に成り立っていると思えるのなら、誰もがそうした根源的な「嘆き」を抱えていると思えるのなら、「あなたを救いたい」という思いもなくならない。
もしかしたら、人間存在は、そういうかたちになっているのではないのか。腹が減ったとか痛いとか苦しいとか暑いとか寒いとか、そういう「嘆き」から逃れて生きていられる人間などどこにもいない。
それは、意識のはたらきそれじたいがひとつのストレスであるということを意味する。
他者に対する関心とは、すなわち「あなたを救いたい」という願いなのではないのか。好むと好まないとにかかわらず、人間存在は「嘆き」の上に成り立っている。
救われない人間が集まって、この社会をつくっている。だから、誰もがどうしようもなくそう思ってしまう。
誰もが救われている世の中になったら、誰も他者に対する感心など持たない。
ビバリーヒルズの住民は、向こう三軒両隣の付き合いなんかしないでしょう。
人は、救われないみずからの存在のかたちをなだめたくて、他者に関心を寄せてゆく。
あなたを救うことができると思っているのではない。そんなことは、誰にもできない。何より、自分自身が、死ぬまで救われないと自覚している。なぜなら、意識それ自体がストレスなのだから、救われるはずがない。
しかし、それでもそれがストレスであるということは、「救われたい」という願いを持っている、ということだ。そしてその願いを自分に向けることが阻まれているのなら、もう「あなた」にむけるしかない。
「あなた」は、「私ではない」、それが、「私」の希望である。だから「私」は、「あなたを救いたい」と願ってしまう。
「あなたにときめく」とは、「あなたを救いたい」という「願い」のことだ。「あなたが輝いて見える」のは救いたいという「願い」のせいだ。
そのときわれわれは、ある「願い」をこめて「あなた」を見つめている。
「願い」を持っているから、人は感動する。
幸せで安楽な暮らしをしている人は、すでに「願い」を喪失している。彼らのように生きてゆくことが人間の理想であるのなら、そのように生きてゆけないものは、生きていてはいけない。さっさと死んでゆくべきだ。そうして、幸せでお気楽な人たちばかりの世の中になればいい。
しかしそんな人たちが他者の存在に深くときめくことができるとは、僕は断じて認めない。そんな人たちが、人間存在の本質に深く根ざして生きているとは、断じて認めない。
彼らは、「人間」であることをやめて、「人間という制度」になってしまっている。
そのときこそ、人類が滅びるときだ。