内田樹という迷惑・「ある」と「ない」

今日は、ちょいとややこしいことを書きます。
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意識はひとつのストレスであり、違和感として発生する。
違和感だから、発生する必然性がある。
世界が何の違和もない対象であるなら、意識が発生する必要なんかない。
「……ではない」という違和感、意識はまず、そういうかたちで世界を認識する。
暑いとか寒いとか痛いとか苦しいとか腹が減ったとか、そういう「嘆き=違和感」とともに対象を認識する。
異変に気づくことが、意識のはたらきだ。
目の前にコップが見える。それは、根源的な意識にとっては、ひとつの異変である。
身体を取り巻くものは、何もない空間である。だから根源的な意識は、「世界は何もない空間である」という認識を前提として持っている。
なのにそのコップは、「何もない空間」を消して(占拠して)しまっている。その「存在している」という事態は、「何もない空間である」という「異変」がそこで起きていることを意味する。
「異変」だから、意識が発生する。
「何もない空間」は見えない。しかし身体が動くことができるのは、「何もない空間」があるからだ。
生きものの身体は動くようにできている。生きものは、身体を通して、根源的に「何もない空間」に気づいている。それは、意識が世界を認識する際の前提なのだ。
そうしてコップという存在を、「ないではない」と認識している。
はじめに「ない」という認識がある。「ある」という概念は、そのあとに生まれてきた。たぶん人類は、はじめに「ない」という概念を持った。「ある」ではない。
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この身体がもし痛みも空腹も暑さ寒さも感じなければ「ない」も同じで、意識は身体に気づかない。
そういう「嘆き」や「苦痛」が、身体に気づく契機なっている。
この生は、「ない」という認識が前提になっている。
生きものであれば、勝手に身体が動く。勝手に呼吸している。意識のない植物人間だって、呼吸している。胃や腸も、勝手に動いている。
身体のことなど気づいていなくても、勝手に身体が動く。
われわれがコップを認識するとき、見た瞬間、いきなりコップだと認識しているか。
たとえば、不意にどこかから丸めた紙くずが飛んでくれば、思わずよける。紙くずなんか当たってもなんともないのに、驚いて思わずよけてしまう。
そのとき意識は、「紙くずである」という認識をしていない。
意識がそれを見ることと、その「意味」を認識することのあいだには、一瞬のずれがある。最初の瞬間は、ただ「何かが飛んできた」と認識しただけである。つまり、「ないではない」ものとして認識しただけなのだ。
意識はまず対象を「空間(ない)ではない」存在として認識し、次に対象とのあいだの「空間」を認識し、そのあとに始めて対象の「意味」を了解する。
コップをりんごだと見誤っても、その「空間=距離」さえ把握していれば、そのものの大きさはちゃんとわかるし、手を伸ばしてつかむこともできる。もしそれを1キロメートル先のものだと感じれば、それはビルディングと同じ大きさだと認識されてしまう。
まず「空間=ない」を認識することが大切なのだ。
それをコップだと了解するのは、そのあとのことである。
意識は「ない」という認識を携えて発生する。
世界はまず「ない=空間」としてたちあらわれる。その前提に立ってわれわれは世界を認識している。
対象の「意味」は、「空間=ない」の向こうに把握される。
すべての対象は、まず「ないではない」と認識される。
根源的な意識は、「ない」という概念しか持っていない。
「ある」は、たんなる社会的な約束の上に合意されている概念に過ぎない。
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身体だって、「ないではない」というかたちでわれわれは気づかされている。
根源的な意識は、身体よりも先に、身体が動くことのできる「空間=ない」に気づいている。
言い換えれば、身体の輪郭は「空間=ない」として認識されているのであって、物体としての輪郭ではない。少なくとも暑さ寒さ痛み空腹等を感じていないときは、「空間=ない」として認識されている。
身体の輪郭が物体として認識されるときは、ひとつの異常(緊急)事態にほかならない。
身体の動きは、身体の輪郭を「空間=ない」として認識することの上に成り立っている。物体として扱おうとすると、どうしてもうまく動かない。運動オンチになってしまう。
意識が「世界=他者」の存在に深く気づいているとき、みずからの身体は消失している。みずからの身体の輪郭は、「空間=ない」になっている。
たとえば、机の表面に指を当てれば、机の表面の質感ばかり感じて、指のことは忘れている。
逆に、指にかさぶたでもあれば、指のことばかり感じてしまう。
意識は、身体が消失する感覚を持つことができる。物体としての身体がつねに「嘆き=苦痛」として知らされる対象であるのだから、それは、ひとつのカタルシス(浄化作用)であろう。
「あなた」にときめくとは、そういう体験にほかならない。
嘆きの対象でしかない身体のことなどすっきりと忘れてしまいたい……人は、そういう「願い」を携えて「あなた」を見つめる。そうして抱きしめたとき、あなたの身体ばかりを感じて、「あなたは私ではない」と認識している。
みずからの身体が「嘆き」の対象であるとき、人は、より深く「あなた」に気づきたいという願いを持つ。ひとつのカタルシスとしての身体の消失感覚は、そこにおいて体験されている。