内田樹という迷惑・信じる

「信じるまいとする」ことと「信じようとする」こと。
「信じるまいとする」のは、すでに信じてしまっているからである。
では、「信じようとする」のは信じてないからかといえば、そうではない。信じることができると信じているから、信じようとするのだ。
どっちに転んでも、われわれは、すでに信じてしまっている。
意識とは、信じるはたらきである。
「信じない」という働きなどない。そのとき意識は、「信じない」という認識のかたちをすでに信じてしまっている。認識するとは、「信じる」ということだ。
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足は、ほんとうに存在するのか。
足が存在していないと信じられるのなら、火の上を歩いても熱くない。そんな修行の行事が、ときどきテレビで紹介される。
広場に藁を敷き詰めて燃やしてしまい、まだ燃え残ってところどころ赤くなっているその上をはだしで歩いて渡りきる。
では、その火がただの水だと信じることができれば平気でその上を歩くことができるのか。できるだろう。精神異常者なら、できる。しかし普通の人は、なかなかそう信じ込むことはできない。
火は、火である。火以外の何ものでもない。尋常な意識は、それを火だと認識してしまうようにできている。
普通の人間にできるのは、足が存在していないと信じることだけである。彼らがそのようにして火の上を歩くことができるということは、自分の足が存在しないと認識することは可能である、ということを意味する。
そういう意識を持つことでしか、われわれは火の上を歩くことはできない。
意識は、二つのものを同時に認識することはできない。常に「何か」が認識されている。したがって、「世界」の存在を深く信じれば信じるほど、身体に対する意識は消えている。「火ではない」と認識することによって、火の上を歩くのではない。火であるということそれ自体と深く和解して身体のことを忘れてしまったときに、歩くことができる。身体の外の世界のことが深く信じられるのなら、身体のことは忘れてしまえる。
「世界」と「自分=身体」とどちらの存在を信じるのか。「自分=身体」の存在を信じないことはできるが、「世界」の存在はどうしても信じてしまう。
意識は、世界が存在すると信じてしまうようにできている。なぜなら、世界は存在であるが、自分は存在ではない。根源的には、「自分」とは、「意識」のことであって、身体ではない。身体もまた「自分」にとっての「他者=世界」にほかならない。
しかし、自分は存在しないと信じ込むことは、あんがいできる。
つまりわれわれの根源的な意識(無意識)は、自分が存在するとは思っていない、ということだ。
そういう無意識に遡行して、世界を信じきれば、火の上でも歩ける。
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焼けた藁の上を歩くことは、ひとつの「神の発見」かもしれない。神が歩かせてくれた、と思う。とにかくそうやって意識が身体の外に憑依してゆけばいいのだ。
そしてこの行事は、修行者だけでなく素人も参加するのだが、女のほうがあんがい平気でやってのける。それは、女のほうが「無意識(根源的な意識)」に遡行できる通路をもっている、ということを意味する。つまり、意識の「裂け目」を持っている。その裂け目の向こうがわに、「世界=神」に気づく無意識のはたらきがある。
男の意識は、表層的な観念に覆われて、裂け目がふさがれてしまっている。
無意識は、「自分」を知らない。無意識は「世界=神」を認識するはたらきであって、「自分」を認識するはたらきではない。
もしもキリストが、誰よりも深く神に気づき神の言葉を伝えた人であったのなら、彼は「自分」を知らなかったのであり、とうぜん「私は神の子である」という自覚もなかったことになる。