内田樹という迷惑・神の言葉

塩野七生氏の「キリストの弟」という短編小説は、キリストは子供のころから自分のことを「神の子」だと自覚していた、という話です。
しかしそれは、違うと思う。
小説だからべつにそんな風に書いてもいいし、それはそれで興味深い読み物だったのだが、そういう風に自覚すれば次々に神の言葉が浮かんでくるかといえば、そういうものじゃないと思う。
それは、神の言葉をよそおっているだけの言葉に過ぎない。
それでいいなら、精神異常者は、みな神の子だ。当人たちもそういっていることだし。
神の声が聞こえると思っているものは、その時点ですでに神の声を聞こうとする態度を失っている。そうやって吐き出される神の言葉は、すべて自分の知識や体験の範疇で、神の声が聞こえる人間であろうとする自分の欲望のままに話をでっち上げているだけのことだ。そんなものは、「神の言葉」ではなく「自分の言葉」なのだ。
神の声を聞こうとするものは、神の声が聞こえるとは思っていない。聞こえないから、聞こうとするのだ。
キリストが語る「神の言葉」とは、「聞こえた」ことではなく、自分を捨てて神の立場に推参していった結果として、「神はこう語られた」といっているだけである。
神の声が聞こえたのではなく、神の言葉を自分の言葉として体験したのだ。
とりあえず、「自分」を捨てなければならない。そこが、精神異常者との違いである。
自分を捨てて、神の立場に推参すること。
意識の「裂け目」の向こう側にある世界、それは、自分の脳内世界であると同時に、その外部の世界でもある。
精神異常者は、すべて自分の欲望(脳内世界)の範疇で世界を規定してしまう。
この社会に生きているということは、誰もが避けがたく欲望を抱えて生きている、ということだ。そういう「欲望=自分」を捨てて神の立場に推参できたものが、「神の言葉」と出会う。
「神の言葉」は、「聞く」のではなく、「出会う」のだ。
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キリストはたぶん、「普通の子」だったのだと思う。ただ、ひといちばい「欲望」の薄い子だったのだろう。「欲望」を捨ててしまえる子だったのだろう。そうやって、幼くして「神」に気づいてしまったのだろう。
彼は、「神」に気づいたのであって、「神の子である」ことに気づいたのではない。
「神の子である」と自覚した瞬間、「神」に気づく契機を喪失する。
「私は神の子である」であると自覚してしまったものは、もう「神の言葉」を伝えることはできない。なぜならそれは、「私の言葉」であって、「神の言葉」ではない。
「私」を捨てることができるものが、神に気づくのだ。
「私=自己」をを持たなければ、無用(無能)の人になってしまう。しかし、そういう状態においてはじめて人は、神の言葉と出会う。
「神の子」であるという自尊感情は、平気で神の言葉をでっち上げることはできるが、神の言葉と出会うことはできない。
「神の子」は「自分」を持っていない。ゆえに「神の子=キリスト」は、神の子であるという自覚もまた持たない。