内田樹という迷惑・「イエス・キリスト」という人

釈迦は、本格的な修行をして悟りを開いた人ということになっているが、キリストの場合は、そんな感じではない。
ある日ふらりと町に現れて、何人かのユダヤ教の指導者たちを次々にひざまずかせていった。そこから布教活動が始まったのではないのだろうか。いきなり衆生の前に現れた、というのとはちょっと違うような気がする。
まあ、信仰の天才、みたいな人だったのだろうか。
江戸時代には「道場破り」というのがあったが、最初はそんなようなことをしていったのではないだろうか。
いきなり衆生の前に現れてパフォーマンスを繰り広げていったというような、そういうたぐいの狂人でも目立ちたがりでもなかったような気がする。
べつに故郷の町で説法の練習をしていたわけでもないらしいし。
20代のころは、貧乏人のくせにろくに仕事もせずにぶらぶらしながらユダヤ教の本ばかり読んでいた。そうして30歳になるころに家を出て、まずヨルダン川のほとりに行き、そこで聖者として名高い洗礼者ヨハネをいきなり説き伏せてしまった。
本格的にユダヤ教の研鑽を積んだ人が、なぜぽっと出の田舎の青年にしてやられたのか。
たぶんそれはもう、知識の問題ではない。神に対する感じ方に、人間としての「格」の違いのようなものを思い知らされたからだろう。
神を「知識」として語るものと、「体験」として語るものとの差。
キリストは、徹底的に「体験」として語っていった。
神を「体験」として語ることのできるものは、めったにいない。最初は体験として語っていても、だんだん知識の寄せ集めの言い方になってくる。それは、知識を持っているものなら、すぐにわかる。
しかしキリストは、語れば語るほど固有の体験の様相が濃くなってくる。
今、そんなふうに神を語ることのできる人間はこの男しかいない、とヨハネは思った。
精神異常者は、知識の範囲でしか神のビジョンを体験できない。
キリストの体験の「固有性」は、精神異常者のものではないことが、ヨハネにはわかった。
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「神は私にこう告げられた」
たいていのものが、まずこう言う。
「汝は、私が遣わした<メシア>としてエルサレムに向かえ」
これは、精神異常者のよく言うせりふだ。
あるいは、後世の弟子たちがキリストを語るときにでっち上げるありふれた伝説だ。
たぶんキリストは、そんなようなことは何も言わなかった。
たとえば、神の言葉として、
「貧しいものは幸いである。そのものたちは、すでに私とともにある」
まあそんなような、誰も言ったことのない言葉を、次々に差し出していったのだろう。
そしてキリスト自身も、それらのことを、自分が気づいたことではなく神から教えられたことだと、ごく素直に信じていた。
彼には、根源的な人間のかたちが見えていた。神と人間の関係が見えていた。それまで彼が読むことのできたユダヤ教の書物などたかが知れているが、それらの行と行のあいだから言葉を見つけ出してくることができた。
彼は、ユダヤ教のエキスパートが理解できないことを語った。
そして論争になれば、こう言う。
「どうしてあなたたちは私の言うことが理解できないのか。それは、私の言葉を聞こうとしないからである」(「ヨハネ福音書」より)
こう言う言い方をされると、知識のあるものほど、胸にぐさりと突き刺さる。
エキスパートであれば、どんな高度な知識を披瀝されても理解することくらいはできる。
しかしキリストは、彼らに「理解できないこと」を語って見せた。
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この世の知識は、頭のいい人間をはじめとする社会的に「有用」な者たちによって占有されている。
しかし、「無用の者」にしか見えない真実がある。
無用の者は、この世の中で役立つことは何も知らないが、神のことなら、有用な者たちよりずっとよく知っている。
神は、人間を救済しない。
したがって救済されている有用な者たちには、神は見えない。
神は人間を救済しない。
したがって、救済されていない者にしか神は見えない。
救済されていない無用の者は、有用な者の理解不能のことを語る。
たとえば律法学者が「王様は立派な衣装を着ている」という社会的な合意のことを言えば、精神異常者も、さらに確信をこめて同じことを言う。
しかし無用の者は、「王様は裸だ」と告知する。
貧しいものはかわいそうなものたちだから救済されなければならないとみんなが思っているとき、無用の者は「貧しいものこそ神のそばにいる」と言う。
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「無用者の輝き」というのがある。
われわれのように中途半端に無用なだけでは話にならないが、本格的な無用者は、神に気づく体験をしてしまう。
たぶんその時代のイスラエルにおいて、キリストほど深く神に気づくという体験をしたものはいなかったのだろう。それは、何かをしてくれる神ではない。この世界の本質のようなことだ。その本質を言葉として引き出すこと、それが「神の声を聞く」という体験だ。
誰もが「幸せになりたい」とか「楽しく暮らしたい」という欲望を持っているが、人はその欲望によって世界を見誤り、神に気づく契機を失っている。
キリストにはそんな欲望はなかったし、そんなものを手に入れる能力もなかった。
彼は「無用の者」だった。
キリストの吸引力は、予言をしたり奇蹟を起こしたりすることにあったのではない。そんな詐術にしてやられるのは、あさましい衆生だけだ。そのときユダヤ教の優秀なエキスパートたちを次々に弟子にしていったから、彼の死後のさまざまな迫害を克服して教団として成長してゆくことができたわけで、そういうエキスパートを回心させることができるのは、予言や奇蹟ではない。われわれにはわからない信仰者としての「格」のようなものがきっとあるのだ。
オウム真理教の麻原なんとかという人にしても、なまじのエキスパートでは気づかないことを言って見せたのだろう。彼は「聖人」ではなかったが、たしかに「無用の者」ではあった。「こんなかんたんなことにどうしてみんな気づかないのか」……彼の権力(グル)の座へのスタートは、とにもかくにもそこにあったのだろう。
キリストだってたぶん、そういう思いを携えてヨルダン川のほとりにあらわれたのだ。