祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」61・美意識

(承前)
生花と造花。
内田樹先生によれば、人が生花のほうを美しいと感じるのはそれが死ぬ(滅びる)ものだからであり、造花は死なない、ということらしい。
しかしそんなことをいっても、造花だって滅びるじゃないか。
あんなぺらぺらのものなんか、かんたんにちぎってしまうことができる。
儀式用の造花の花輪を一年野ざらしにしておけば、どんどん色あせて、しまいにはぼろぼろになってしまうだろう。
それは、滅びるか否かの問題ではない。
自然であるか否か、ひとまずそういう問題だろう。
自然といっても、生きものと違って海や山は滅びない。
そして、樹齢何千年という屋久島の縄文杉に人気があるのは、その滅びない永遠性に対する憧れによるのだろう。
自然であるか否かは、滅びるか否かという問題ではない。
では、自然と自然でないものは、どこが違うのか。
今ここにおいて「生成」しているかどうかということが違う。
造花には、そういう「生成」の気配がない。
そういう一回きりの「今ここ」を持っていない。
造花には、切実な「今ここ」がない。過去から未来に向かって飴のように延びた時間の中で、その存在の気配が弛緩してしまっている。
人間の心だって、「今ここ」に対する切実さを失って、時間を過去から未来に向かって飴のように延びたものとしてイメージするとき、弛緩してしまっている。
内田先生は、花の美しさはやがて滅びるというその「無常」の中にある、というが、「無常」とは、内田先生がいうような滅びるか否かという問題ではない。やがて滅びるからこそまだ滅びていない今が貴重なのだ、というような弛緩したいじましさのことではない。
無常とは、生成変化していっている、ということ。無常観とは、その生成変化する中の「今ここ」に対する意識のこと。
海も山も滅びないが、つねに生成変化している。
生成変化してゆく永遠性のことを「無常」という。
宇宙だって、永遠に生成変化していっているのだろう。その永遠の中の「今ここ」をとらえる意識を無常観という。
滅びるかどうかなんて、どうでもいいことだ。むしろ、その滅びない永遠の生成変化のことを「無常」というのだ。
「滅びるから美しい」などとしゃらくさいことをいっているやつにかぎって「無常」ということがわかっていない……たしか小林秀雄もそんなようなことをいっていた。
内田先生、俺は「無常」を知っていると自慢するあなたこそ、誰よりも「無常ということ」がわかっていないのですよ。つまり「鎌倉時代のどこかの生女房ほども無常ということがわかっていない」ということです。
花が滅びるということを考えないのが「無常」なのだ。
それは、たえず生成変化してゆく中で、たえず一瞬の「今ここ」として出現している。それが、無常ということだ。
さしあたって「滅びる」ということはどうでもいいことなのだ。滅びることもまた、永遠の生成変化の中の一刹那に過ぎない。言い換えれば、日本列島の無常観においては、「滅びる」ことはそのようにして肯定されている、ということだ。
生花は、造花と違って、たえず生成変化している。その一瞬ごとの切実さに、われわれは感情移入してゆく。
内田先生、あなたなんか、この国の歴史の水脈がなんにもわかっていない。
あなたなんかよりも、他愛なく「かわいい」とときめいてゆく今どきのギャルのほうが、ずっと深く「無常ということ」も「美的生活」も体得している。
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世阿弥は、「萎(しお)れたる姿こそ花なり」といった。
いまや盛りと咲き誇る花より、枯れる直前の萎れた花の姿こそもっとも美しい、という。
しかしそれは、それが滅びてしまうことを表現しているからではない。滅びる直前の、もうあとがないというぎりぎりの「今ここ」の、その一回性が美しいといっているのだ。
彼はそこに、凝縮された「今ここ」を見ていた。
滅びる未来などまさぐっているのではない。そういう「時間意識」ではなく、「時間からの逸脱」すなわち「今ここの一回きりの出現との出会い」に美がある。
死んだら何もない黄泉の国に行くだけだ、と考えていたのが縄文以来の日本列島の伝統である。
それは、死のことを考えない、ということである。すなわち、死はない、と考えることが日本列島の伝統だった。
「今ここ」があるだけだ、と。
「今ここ」の生成の一瞬にこの生のすべてがある。
「今ここ」の一瞬の「裂け目」の中に消えてゆくこと、それが死ぬことだ。
日本列島においては、死は、未来にあるのではない、「今ここ」にある。「黄泉の国に行く」とは、そういうことなのだ。
死を思うことは、死を思わないことだ。
「今ここの裂け目」を見つめることが死を思うことであり、「今ここの裂け目」に消えてゆくことが死ぬという体験だった。
「今ここ」をこの生のすべてとして「今ここ」の中に消えてゆく、それが、日本列島における「滅びる」という体験だった。
「萎れたる花」は、「今ここの裂け目」をあらわしている。その「裂け目」から死者がよみがえるのが世阿弥の能だった。
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人生は不公平だ。
幸せな人生もあれば不幸な人生もある。長く生きる人もいれば、生まれてすぐに死んでゆく赤ん坊もいる。
人生の価値なんかいってもしょうがない。
おおかたの人間は、虫けらのように生きて死んでゆくだけだ。
べつに、それでもかまわないのだ。
もしもあなたが人生を肯定するのなら、虫けらのように生きて死んでゆくだけの人生だって肯定できなければならない。
どちらも大切でかけがえのない人生だからではない。どちらもどうでもいいことだからだ。
自分の人生は充実していた、というのは、あなたがそう思いたいからそういうことにしているだけのことだ。
あなたの人生がどれほど充実していようと、過ぎてしまったことはなかったも同じだ。思い出は残っても、反芻して体験することはできない。
苦しい人生だろうと楽な人生だろうと、過ぎてしまったらなかったも同じなのだ。それは、厳然たる事実だ。
われわれにあるのは、「今ここ」だけだ。
その「今ここ」が楽であろうと苦しかろうと、過ぎてしまえばなかったも同じだ。
われわれは、そんな「過ぎてしまえばなかったも同じ」の「今ここ」をつかの間繰り返しながら、ついには「死んでしまえば生まれてこなかったのと同じだ」という事実に帰ってゆく。
誰もこの事実からは逃れられない。
嘘だと思うのなら、一度死にそうな体験をして死と向き合ってみればいい。誰だって、きっとそう思う。
いや、べつに、死にそうな体験などしなくても、ふだんから誰もがそんな思いを心の底に抱えている。
そう思いたくなくて、そうではない理屈をあたかも真実であるかのように自分に言い聞かせて生きているだけのことさ。
苦しかろうと楽だろうと、過ぎてしまえばなかったも同じさ。今死のうと、あと五十年生き延びようと、同じことさ。
苦しみを生きられない人間が、勝手に、苦しんだら生きたことにならない、という理屈を捏造し、そういう自分のいじましさを正当化するために、「衆生を苦しみから救う」などという誓願を立てる。
苦しんでいる人間に同情する。
しかし、苦しんだらいけないというわけでもないだろう。そこでしか味わえない人生の醍醐味もある。
苦しみを生きることができないで脳が退化してしまう、ということもある。
現代病の多くは、苦しみを生きることができないというところから起きてきているし、苦しんだら生きたことにはならないという社会的合意が、よけいに苦しみやっかいなものにしてしまっている、という側面もある。
苦しんだらいけないのではない。苦しみからカタルシスをくみ上げられないから、それがやっかいなものになってしまう。
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意識は、苦しみに憑依してしまうようにできている。苦しみに憑依していることを意識というのだ。
意識は、苦しみ=ストレスとして発生する。われわれは、そこから生きはじめる。
そこから、「ときめき」が生まれ、「思考」が生まれてくる。
何はともあれ人間の快楽も知能も、苦しみ=ストレスを水源として進化してきたのだ。
幸せになればそれですべてOKというわけにもいかない。
「美的生活」をしている、と自画自賛してもしょうがない。そうした生活事態の限界もあるし、最低最悪の人生でしか見つけられない真実もある。
幸せの中で得られる快楽と思考には限界がある。彼はただ、そこでしか生きられないというだけのことだ。
また、生きていてもしょうがないような人生をなぜ生きているかといえば、生きようとするからではなく、生きることは「結果」だからだ。
意識は、一瞬遅れて生きてあることを認識する。
われわれの根源的な意識は、生きてある「今ここ」にたどり着こうとしているのであって、生き延びようとしているのではない。そしてそういうことは、「美的生活」とやらを生きている人にはわからない。
生きてあることの根源は、あの連中にはわからない。僕は、美的生活をしている人間なんか尊敬しない。生きてあることの根源は、生きていてもしょうがない人生を生きている人に聞く。
誰だって自分に酔いしれて生きてゆければ幸せだろうが、幸せな人生を歩まねば生きたことにならないわけでもない。
どんな人生も人生だ。
そして、死んでしまえば、生まれてこなかったのと同じだ。最後には必ずその事実を突きつけられるし、ほんとうはふだんからいつも心の底ではその事実を突きつけられて生きているのが人間なのだ。
意識は、生きてある「今ここ」についにたどり着けない。われわれはその不可能性を生きている。そういうことは、生きていてもしょうがない人生を生きているものにとってはたんなる生活実感であるのだが、生き延びようとする観念的制度的欲望に浸されて生きている人間にはわからない。せいぜい観念的な形而上学として理解しているだけだろう。
その事実が救いにならなければ、われわれはちゃんと死んでゆくことができないし、生きてあることの醍醐味も味わえない。
その事実と和解していない思想や思考は薄っぺらだ。
何はともあれみじめで苦しい人生を生きてきた人は、最後にその事実と和解してゆく。
それは、自分に張り付いている意識を引き剥がすという体験であり、そうやって人は人にときめいている。
内田先生のように自分に酔いしれて生きている人間は、死と和解することも、他者にときめくこともできない。それが、幸せの中でしか生きられない思想の限界である。
他者にときめいているふりはいくらでもできるが、意識が自分に張り付いていて他者にときめくことは論理的に成り立たない。
日本列島の歴史の水脈は、意識を自分から引きはがす、ということにある。
「死んだら黄泉の国に行く」という世界観は、「死んでしまえば生まれてこなかったのと同じだ」ということであり、その上に「無常」が成り立っている。また、人間はそういうことを知ってしまったから人殺しの歴史を歩まねばならなかった。それはもう、どうしようもない事実なのだ。
死ぬことは「今ここの裂け目」の中に消えてゆくことであり、そうやってわれわれは永遠の生成変化の中に溶けてゆく。
「今ここの裂け目」の向こうに、永遠の生成変化が流れている。そのようにしてわれわれは、花を「美しい」と眺めている。