祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」55・アンドロイド

桜は、7分咲きくらいのときがいちばんあでやかである。満開になると、もう野暮ったくて、年増の厚化粧みたいにかえってみすぼらしいところが出てきてしまう。
そういうニュアンスは、おしゃれにも通じている。
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まったくもって「生きられる意識」とは都合のいいことばで、直立二足歩行の起源であれ、ことばの起源であれ、すべてはこの意識の上に起こってきたのだろう。
そして、今どきのギャルが「かわいい」とときめいている心の動きだって、彼女らなりの「生きられる意識」にちがいない。
彼女らは、「かわいい」とときめくことを「生きられる意識」として生きている。
どんな時代であっても、生きるということはしんどいいとなみである。たとえ平和で豊かな世の中であっても、誰もがけんめいに「生きられる意識」をたぐり寄せながら生きている。
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「かわいい」ということばが時代の表面にせり上がってきたのは、バブル景気が破綻した1990年代のはじめからのことだろうか。
80年代のバブル景気を実現させた大人たちは、自我の充足に酔いしれていた。
金を見せびらかすことは、自分を見せびらかすことだった。
自分を見せびらかすことに熱心な世代である。この意欲が、バブル景気を実現させた。
自分を表現する方法は人それぞれであろうが、ともあれバブルのころまでは、芸術とは自分を表現する行為で、それが美の本質だ、というようなものさしで語られていた。吉本隆明氏なんかまさしくそんなスタンスだったし、おおむねみんなもそう思っていた。
つまり、「救済」とは自分を表現して自分を慰めたり自分に酔いしれたりすることだ、というようなところで彼らは合意していた。
平たくいえば「個性の時代」ということだろうか。
「個性」に価値があった。「個性」が、芸術の価値をはかるものさしだった。
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バブル真っ盛りのころの80年代の若者は、それぞれ個性的で消費意欲も旺盛だった。
吉本氏は、そんな奔放な若者たちのことを、「無意識が汚れていない」といって賞賛していた。
で、僕は、そのことに対して、「おかしなことをいわないでくれよ」と思った。
無意識が汚れていない人間なんかいるものか、無意識が汚れるところから人間は生きはじめるのだ、生まれたばかりの赤ん坊が「おぎゃあ」と泣くのはそういうことなんだぞ、といいたかった。
そのとき赤ん坊は、世界の異変に驚き、みずからの無力さに絶望している、そうやって無意識を汚されながら泣いているのだぞ、と。
人間に対する見方があなたはなぜそんなにも薄っぺらなのか、と思った。
吉本氏がそういうのは、そのころの若者たちは自分を慰めるということをしないでも自分に酔いしれることができている、と見ていたからであり、自分に酔いしれて生きてゆくことこそ人間の幸せであり救済である、という考えが頭にこびりついていたからだ。
彼らと吉本氏は、「自分に酔いしれる」ということを共有しており、だから吉本氏は彼らを賞賛した。何しろ、「自己表出」こそ芸術における美の本質である、といっている人なのだから。
また、彼らの旺盛な消費意欲に対しても、いっぱしの人間通ぶって「あくなき欲望の追求は悪いことではない、彼らこそポスト近代資本主義の未来を生きる人間たちである」といっていた。
資本主義こそ「あくなき欲望の追求」の上に成り立っているというのに、何をとんちんかんなことをいってやがる……とわれわれは思った。
吉本氏の予言は当たったか?
たった十年でくつがえされてしまったじゃないか。
現在の若者は、大人たちよりずっと欲望が少ない。だから、社会の消費行動が冷え込んでデフレ傾向になっている。「ポスト近代資本主義の未来を生きる人間たち」は、そのようにして登場してきたのである。
あのころの若者たちの旺盛な消費意欲なんか、ぜんぜん引き継いでいない。
このことだけでも、吉本隆明という知識人がいかに無能な思想家であったかということがわかろうというものだ。
80年代の若者たちは、自我意識の強い最後の戦後世代だったのである。そこのところを、吉本氏は見ることができなかった。
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消費者が自分を表現したいという強い自我を持っていなければ、消費は拡大しない。これは、資本主義の鉄則らしい。
とすれば、現在の消費社会のデフレ傾向は、人々の自我が薄くなってきている、ということかもしれない。
少なくとも現在の若者の消費行動は、80年代の若者のそれに比べたら、圧倒的に冷え込んでしまっている。
いまや、名もない庶民がフレンチのディナーに憧れる時代ではない。
食うものなんかコンビニ弁当でけっこう、という若者が増えている。
彼らの「生きられる意識」は、自我をできるだけ小さくしておくことにあるらしい。
近ごろのギャルたちの化粧やファッションは、個性がなく、どれも同じだという。
そのとおりだ。彼女らは、個性など表現していない。自我を小さくして、町の景色に溶け込もうとしている。
しかし、それはそれで高度なファッション表現である。何しろ彼女らは、小さいころからたくさんおしゃれな服を着せられて育ってきたわけで、おしゃれのことは大人たちよりも心得ている。彼女らにとっては、個性を表現する、という手法そのものがすでに野暮ったいのだ。
そういうダサイ表現は、バブル景気とともに終わっている。
彼女らは、自分に酔いしれることなど目指していない。ファッションにおいて、自意識が透けて見えることの野暮ったさをちゃんと心得ている。だから、たとえばシャネルの上着の下にジーパンを穿くとか、ユニフォームを着るようなタッチでおしゃれをしているのであり、そういう着こなしを「かわいい」という。
自意識を持たないユニフォームの着こなしこそ、逆説的にもっとも高度なおしゃれの表現になる。だから最先端の流行は、いつだってユニフォームを模倣したがる。
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自意識を小さくしてしまうこと、それが「かわいい」という表現である。
彼らの親たちは、バブルの消費景気とともにあくなき欲望を追及して生きてきたのだが、そういう人間くさい生々しさは苦手なのだ。
そういう人間くささをそぎ落としたところに「かわいい」がある。
ヨコハマ買い出し紀行」(作・芦奈野ひとし)という劇画がある。10年くらい前に発表され、いまだに一部の若者たちに熱くせつなく支持されている。この作品は、現在の若者たちが抱く「かわいい」というイメージの、ひとつのスタンダードな基準をそなえているのかもしれない。
主人公は、若い娘。まさに「人間くさい生々しさ」が希薄な存在として描かれている。
しかしそれもとうぜんで、彼女は、アンドロイドなのだ。心も体も限りなく人間に近く、人間そのものともいえるのだが、それでも人間であることはできない。
その喪失感(かなしみ)を抱いて彼女は生きている。
言い換えれば、それは、現在の若者自身の気分であり、彼らはアンドロイドなのだ。
アンドロイドは自我という人間くさい生々しさが希薄だから、「まったり」と生きている。
「まったりと生きる」とはどういうことかという、ひとつのスタンダードのかたちを、この作品は示してくれている。
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彼女の名は、「アルファ」。住んでいるところは、湘南の海辺のある町。
ときは、近未来。地球温暖化で海面が上昇し、海岸の住宅は、ほとんどが水没してしまっている。
彼女の家は高台にあったから、それを免れた。しかし水面は年々上昇し続けているから、ほとんどの人はその町を捨てて内陸部に移住していった。
廃墟の町である。高台に住むほんの少しの人だけが残った。
地球全体の文明もすでにストップしてしまっている。
だから人々は、なんだか1950年代のような暮らしをしている。
未来なのに過去に戻ってしまっている。
彼女や彼女のまわりの人々は、心も暮らしも、のどかでまったりとしていて、時間はゆっくりと流れている。
未来と過去の融合、すなわち時間の流れからの逸脱、すなわちこの生からの逸脱、すなわち人間からの逸脱……この作品の雰囲気を一般的なことばでいえば、「不思議な空気感」、ということになるのだろうか。
彼女は、一人で高台の家に住み、家の一部を改装して喫茶店にしている。
しかし、お客なんかほとんど来ない。町に残った老人とか気まぐれな旅人が、ときどきふらりと立ち寄るだけである。
彼女を作ったご主人様はどこか遠いところに旅に出かけており、その留守番として彼女を置いていったらしい。
彼女はどんなに人間に近くてもアンドロイドだから、「人間にはなれない」という喪失感・欠落感を先験的に抱えながら生きている。
それに、歳をとることも死ぬこともないから、まわりの人たちと「時代を共有している」という意識を持つことができない。
そういう喪失感・欠落感を抱えた存在はどういう心の動きをするのか、作者はそれをきめ細かく追いかけ描写してゆく。
彼女は人恋しげにいつもまったりと微笑んでいるが、喪失感というかなしみはいつもついてまわっている。
とはいえかなしんではいるが、人間くさい「欲望」など持たないから、くよくよすることはない。
たとえば、彼女にとってものを食うことなんか、生きるための行為ではなく、ただの遊びのようなものだ。生きてあること自体がただの遊びのようなものだ。
しかし、喪失感があるから、願うことや求めることはある。つねに人との出会いを求め、出会えばときめいている。だから、喫茶店をつくった。
それに、この滅びつつある世界をちゃんと見届けて、いつかご主人様が帰ってきたときに報告しなければ、という使命感もある。
彼女は、自分がアンドロイドとしてどう生きてゆけばいいかということを、いつも模索している。
そして現在の若者も、自我の薄い存在としてどう生きていけばいいかということを、いつも模索している。
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町に残ったほかの人たちだって、ほとんどが老人だということもあって、町を復興させようという人間くさい意欲も能力もない。
誰もが穏やかに微笑みながら、滅びてゆくことを見つめて暮らしている。
しかし、滅びてゆくことと和解しているからこそ、誰もがせつなく人にときめいてゆく。
世のため人のためなどという人間くさい欲望なんか持たなくても、「われあり」と自分の存在を確認して自分に酔いしれることができなくても、人を生かしているものは確かにあるのだ。
幸せとか人生の充実とか、そんなあれやこれやを欲しがらなくても、生きていれば人は、たのしんだりかなしんだりしてしまうのだ。
滅びてゆくことと和解しているものこそ、より深いところからそういう心の動きをくみ上げている。
そういう心の動きをくみ上げることができれば、充実した人生でなくても、充実した自分でなくとも、より深く根源的に生きることができる、と作者はいっている。
深くかなしめ、深くよろこべ、と作者は、はにかみながらささやきかけてくる。
今どきの若者だって、そのように生きたいと願っている。
人間は、人間であることから逸脱してゆく。
人間になるとは、アンドロイドになる、ということだ。
人間は、人間であることができない喪失感・欠落感を負っている。
アンドロイドを描くことは、人間を描くことだ。
われわれは今、そういう時代を生きているらしい。