祝福論(やまとことばの語原)・「かわいい」54・砂漠の思想2

人間とは「自己意識」である、という。「自己意識」を確かにすることが「生きられる意識」である、という。欧米人はそんなことばかりいっているし、それが現代のこの国の社会的スローガンにもなっているらしい。
すなわち、自分に酔いしれて生きることこそ人間の幸せである、と。自分に酔いしれて生きたやつが勝ちだ、と。
まあそれでもいいのだけれど、そんなことばかりしているからインポのおやじになりヨイヨイのじじいになってしまう、という側面もある。
なぜそうなってしまうかというと、それが、「生きられる意識」の根源のかたちにはなりえないからであり、この国はそういう意識を抱いて生きてゆけるような文化風土になっていないからだ。
欧米には「神」が存在していて、彼らは審判者たる「神」を背負っているから、そうかんたんに自分に酔いしれてしまうことができない仕組みを持っている。しかしこの国にはそんな「神」など存在しないから、彼らの論理に丸め込まれたこの国のものたちは、あっさりと自分に酔いしれてしまうことができる。
現在、世界中で、この国の大人たちほど自分に酔いしれて生きている人種はほかにはいない。だからやつらの顔は、あんなにもふやけてしまっているのだし、若者をうんざりさせて、若者が生きにくい社会になってしまっている。
現在の大人たちのそのふやけきった顔つきが、まわりの老人や若者や子供や女たちを追いつめている。
自分に酔いしれたやつが勝ちだ、という理屈には、誰しもなかなか抗しきれないものがある。何しろ彼らは、世界でいちばん自分に酔いしれて生きているものたちなのだ。
現在のこの社会の中心には、自分に酔いしれて生きているものばかりが集まっている。彼らは、自分に酔いしれることができなくなったら人生おしまいだ、という強迫観念がある。彼らの自我意識は、「われあり」を確認することが「生きられる意識」であるという「近代」の思考と結託し、ますます肥大化してゆく。
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人は、「労働」を通じて「自分」を確立する。
「遊び」を通じて「自分」を忘れる。
だから、労働こそが人間性の根源である、とヘーゲル先生がいい、内田樹先生もわが意を得たりとうなずく。
「われあり」を確認することが「生きられる意識」であるのなら、そりゃあたしかにそれが人間性の基礎になるのだろう。
しかしこの国には、ニートや引きこもりやフリーターといった若者がたくさんいる。彼らの存在は、内田先生のアイデンティティを脅かしている。だから先生は、彼らがこの国を滅ぼす元凶だといって、執拗に攻撃する。
僕はべつにこの国が滅んだってかまわないと思っているのだけれど、ともあれそのような若者が存在するということは、そういうことが人間性の基礎でも根源でもないということを意味する。
それが人間性の根源であるのなら、彼らだっていわれなくても働くさ。
それが人間性の根源であるというために内田先生は、彼らを人間の範疇に入れない。そうやって異分子を除外することによって、はじめてそれが人間性の根源であるという理屈が成り立つ。その理屈を成り立たせるためには、というか先生が自分に酔いしれて生きるためには、彼らを人間の範疇から振り落としてしまわねばならない。
ナルシストとは、サディストの別名である。
人間として認めてもらいたかったら黙って働け、と内田先生はいう。
そんなことをいったって、人間なんてたいてい、すきあらば働くまいとしている存在なんじゃないの。
ワーカーホリックのあなたたち大人はともかくとしても、女や若者は、休日は多ければ多いほどいいと思っている。
「生きられる意識」は、自分なんか忘れて世界や他者にときめいてゆくことにある。生きてあることのカタルシスは、自分が「消えてゆく」ことにある。そしてそういう体験は、「遊び」の中にある。だから人は、セックスをするのだし、旅行に行きたいとも思うし、休日は多ければ多いほどいいと思う。
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旅をするとは、今ここの日常生活の中にある自分を今ここから消してしまう行為である。
一万年前、「労働」することの苦痛を覚えた人類は、今ここから消えてしまいたいという人間ほんらいの衝動がますます募り、旅をすることのカタルシスを体験するようになっていった。これが、人類による「旅」のはじまりである。それよりずっと昔から旅をしていたなんて大嘘であり、人類の歴史は「旅」とともにはじまったのではない。
人類は、労働を通じて、存在することのいたたまれなさを深く知った。そこから、旅の歴史がはじまったのだ。
「われあり」が「生きられる意識」だという西洋人だって、つねに神に懺悔しながら、その「いたたまれなさ」と折り合いをつけていこうとしているではないか。
「われあり」が「生きられる意識」だといいながら、西洋人だってやっぱり、存在することのいたたまれなさを抱えているのだ。
それは、「われあり」が「生きられる意識」だという観念によって「われあり」のいたたまれなさを無意識の奥に封じ込めてしまうという、いわば曲芸である。その曲芸には、唯一絶対の「神」が必要だった。
しかし同じ観念を抱いているこの国の大人たちは「神」を持っていないから、じつにまあ無邪気に自分に酔いしれ、存在することのいたたまれなさを忘れてしまっている。そうして、あんなにもふやけた顔になってしまっている。
「われあり」なんか「生きられる意識」でもなんでもないが、少なくとも西洋人は、存在することのいたたまれなさと戦っている。彼らは、人間であることの根源と戦っている。そしてその戦いの勝利は、「神」によって保証される。
だが、この国の歴史の水脈においては、そうした人間性の根源と戦うのではなく、そのまま受け入れ肯定してゆく文化を育ててきた。
人間性の根源を受け入れ肯定してしまうから、ニートになりフリーターになり引きこもりにもなってしまうのだ。
人間は「旅」が好きだということは、それほどに深く今ここに存在することのいたたまれなさを抱えてしまっていることを意味する。
「旅」は「遊び」である。「労働」ではない。
こんな当たり前のことをわれわれがなぜいわなければならないかというと、「労働こそ人間性の基礎である」などとくだらないことをほざく知識人や大人たちがのさばっている世の中だからだ。
人間は労働を通じて存在することのいたたまれなさをより深く思い知らされる……これが、人間性の基礎である。
人類は、「労働」という不自然な行為を引き受けることによって、「遊び」という自然からより深いカタルシスを得られるようになっていった。
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労働が人間性の基礎であるといっている連中には、遊びの醍醐味はわからない。
労働なんか、いやいやしょうがなくやるものだ。遊ぶ楽しみや休日の楽しみなしに労働なんかやっていられるものではない。
それでも労働を拒否しないですんでいるのは、労働の中でも、いささかの世界や他者に対するときめきを体験することができるからだ。その体験を失ったら、働いてなんかいられない。労働そのものの中にときめきがあるのではない。
働くとは、自分の生の時間を社会に売り渡してしまうことである。そのことに、どんな人間性の基礎があるというのか。そういうことに、あなたはストレスを感じないのか。
自分の生の時間を社会に売り渡してしまうことが自分のアイデンティティである、という曲芸を、あなたはできるか。あなたは、そんなことのために生きているのか。
やらなきゃいけないならやるよりしょうがない。それだけのことさ。たいていの人は、そう思いながら働いている。
労働そのものには、人間性の基礎なんか何もない。労働することにもし意義があるとすれば、労働によってに深く人間性の基礎が侵食されるとき、人はあらためて「遊び」という人間性の基礎に気づかされる、ということにある。
人間性の基礎を蹂躙することに、労働の意義があるのだ。
そして、仲間とのあいだで、たがいにそのことに耐えているという連帯感が少しでも持つことができれば、なんとか働いていられる。
自分の生の時間を社会に売り渡して、世のため人のためになっているという満足で働けというのか。そんなことをいっても、われわれは、自分の代わりはいくらでもいる仕事をしているのだ。それは内田先生のようなおえらい立場の人でも同じで、世のため人のためというなら、自分がやめて誰かにゆずってやればいいではないか。
総理大臣だって、代わりはいくらでもいる。やつらは、世のため人のためという理屈を盾に、必死にその席にしがみついている。
世のため人のためなんかじゃない、われわれは、隣のデスクの「あなた」との関係で働いている。その関係が破綻したら、もう働いていることはできない。世のため人のためなどという理屈で我慢できるほど立派な仕事をしているわけではない。代わりはいくらでもいる、といわれたら、黙って引き下がるしかない。
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自分に酔いしれることに勤勉なものだけが、世のため人のためというスローガンで働くことができる。世のため人のためというスローガンが正義だあるのなら、能なしの仲間など、どんどん切って捨ててしまえる。というか、そういう仲間の存在が耐えられなくなってくる。そういう仲間を蹴落とせば、さらに自分に酔いしれることができる。
まあ、世のため人のためなどという大人は、ひとまず警戒したほうがいい。世のため人のためになっていないあなたは、彼らから人間として認められていない。
世のため人のため、というナルシズム=サディズム
世のため人のため、などという人間ほど「他者」を喪失している存在もない。
世のため人のため、という正義を手に入れたら、もう何をしても許される。戦争だって、アウシュビッツだって許される。それは、自分に酔いしれるためにもっとも有効なアイテムである。あるいは、自分に酔いしれたいナルシストがいちばん夢中になる玩具である、というべきだろうか。
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われわれは、世のため人のためになんか働かない。
われわれにとっての「他者」とは、隣のデスクの「あなた」だ。
役立たずの「あなた」だ。
それ以上の他者なんかイメージできない。
われわれは、生きてあることのいたたまれなさを「あなた」と共有している。
労働とは、たしかに世のため人のためにする行為だ。だからこそ、そこには、他者を喪失するなどして、人間性を蹂躙する要素がはたらいている。
労働は、本質においては苦役である。そんなこと、当たり前じゃないか。
われわれが働いているのは、世のため人のためでも、仕事が生きがいだからでもない。
自分だけじゃなくみんな我慢して働いているのだという、「社会性」というか「空間性」というか「場」というか、そんなものを感じるからだ。
われわれは、仕事が終わったときのひとしおの悦楽(カタルシス)のために働いている。どんな有意義な仕事であろうと、この悦楽(カタルシス)にまさるものはない。
人間を生かしている意識とは、「われあり」を確認する意識ではなく、「われあり」を確認するときのいたたまれなさであり、そこから解放されてゆくカタルシスをくみ上げながらわれわれは生きている。
その「いたたまれなさ」が、根源において人間の生を支えている。
原初の人類は、その生きてあることのいたたまれなさにせかされて地球の隅々まで拡散していったのであり、そのいたたまれなさを引き受けて「労働」という行為を生み出していった。
いたたまれなさを引き受ければ、そこから解放されるカタルシスをくみ上げることができる。このいたたまれなさがあるから、人は旅に出るのだし、直立二足歩行する人間は、避けがたくそういう体験のなかに入ってゆくようにできている。
このいたたまれなさを知らないものは、生きてあることの根源的な悦楽(カタルシス)を体験することもできない。
この悦楽(カタルシス)を体験していないから、人間性の根源は労働することにある、などととんちんかんなことをいってくるのだし、世のため人のためなどといいながら自分に酔いしれているから、インポのおやじになりヨイヨイのじじいになってしまう。
まあ、あんな鈍くさいやつらに見下されたくないということもあるが、労働することが人間性の根源ある、というような理屈を認めるわけにはいかないのだ。