祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」15・め・み・みず

自分の心も体も、ひとつの「荒野」である。
だからこそ人は、荒野の中でひと掬いの湧き水と出会ったときのように、「小さきもの」の出現に「かわいい」とときめいてゆく。
自分なんか、ただの「荒野」である。心も体も、つねに「けがれ」を負っている。
そういう自覚のないナルシストや自我の肥大化した連中が、荒野の風景に安らいでいるにすぎない。荒野の圧倒的な存在感を前にして、自分はなんとちっぽけな存在なのだろうという感想を洩らしながら、そのちっぽけな自分にうっとりとときめいていやがる。
荒野に立っているものは、自己意識(自我)を肥大化させる。そうやってキリスト教が生まれてきた。
それに対して自分の体も心も「荒野=けがれ」として自覚している者は、自分を忘れて「今ここ」のこの世界や他者にときめいてゆく。
何もかも満ち足りた時代に生まれ育ったやまんばギャルたちは、自分の心も体も「荒野=けがれ」であると幻滅してしまい、自己意識(自我)を確かにしてゆくことができなかった。しかしだからこそ、「今ここ」のきらきら光る「小さきもの」の出現にときめいていった。
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「かわいい」ものは、存在感とか物質感が希薄である。
人はそれほどに、この世界の存在感とか物質感というものにある種の圧迫感を抱いている。
われわれの心は、この世界の存在感や物質感に追いつめられている。
物が「ある」と気づくこと、これが意識の発生である。意識は、「ある」ということに対する「違和感」として発生し、動いてゆく。
意識とは、「違和感=ストレス」である。
だからわれわれの心は、「ない」という空間性に癒される。
世界が存在することや自分が存在すると感じることは、救いでもなんでもない。そういうことを忘れているところで「ときめき」が生まれ、生きてあることのカタルシスを体験している。
心は、存在感や物質感の希薄なものの、その「空間性」に「かわいい」とときめいてゆく。
「かわいい」ものは、「存在」するのではない、「出現」するのだ。その出現する気配の「空間性」に、人は、「かわいい」とときめいてゆく。
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やまとことばの「め」は、「出現」の語義。
「目(め)」をあけると世界が出現する。
おかあさんが「めっ」といって叱るのは、いたずらが出現したから。
その出現の気配がかわいいから、「めんこい」とか「めぐい」という。
「めんこい」=「めこい」、「めこ」とは、小さきものの出現。出現している小さきもの。
「めぐい」の「ぐ=く」は、「組(く)む」の「く」。「交錯」「複雑」の語義。「めく」とは、交錯して出現するさま、すなわちきらきら輝いて出現するさま。「めくるめく」の「めく」。「春めく」といえば、暖かくなったり寒さが戻ったりしながらだんだん春が出現してくること。
「芽(め)」は、土の中や木の枝から最初に「出現」するもの。
「めんこい=めぐい=かわいい」とは、きらきらしながら小さきものが出現するさま。
「めし」といえば、お釜のふたを開けたときに湯気とともに出現するおいしいもののこと。
「し」は「しーん」の「し」、「静寂」「孤独」「固有性」の語義。炊き上がったご飯は、ただの米とは違う特別なものだから、「し」という。
「めし」ということばもまた、日本列島の住民の「出現する」ものに対するときめきから生まれてきた。
「かわいい」とは、出現すること。
かわいいものは「出現する」のであって、「存在する」のではない。それは「気配」であって、「存在感」ではない。
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われわれは、みずからの身体やこの世界の「存在=物性」に対する圧迫感を抱いている。
「存在=物性」に肉薄しようとする西洋美術に対する、「気配=画像」を写し取ろうとする日本美術。
西洋の神は存在感によって存在証明がなされ、日本列島の神は、画像=輪郭の中に隠れているというその不在性が存在証明になっている。
キリストがいたイスラエルの荒野の景色は、圧倒的な存在感を持って迫ってくる。それに対して日本列島の湿潤な空気の中のおぼろな景色は、存在感が希薄だ。そういう違いだろうか。
荒野に立てば、自己意識(自我)が肥大化する。おぼろな景色の中にいれば、自己意識(自我)もあいまいになる。
自己意識(自我)を支えてくれる大きくたしかな存在の永遠の神。
一方、自己意識(自我)の希薄な不安は、「今ここ」の「小さきもの」の出現にときめいてゆく。
西洋の神は「永遠」を保証し、日本列島の神は、「今ここ」に気づかせてくれる。
人間と猿と、どちらが自己意識(自我)が強いか。猿に決まっている。人間は、つねにアイデンティティの不安に揺れている。人間という猿が二本の足で立ち上がることは、アイデンティティを喪失して他者や世界にときめいてゆくという行為だったのだ。
アイデンティティの不安に揺れているのが人間の心の動きであり、心の中にそういう「荒野」を持っているのが人間なのだ。
そういう「荒野」を持っている心が、「今ここ」の「小さきもの」の出現にときめいてゆく。
きらきら輝いているものは、「存在する」ものではなく、「出現する」のだ。
「ときめく」という心の動きは「出現する」のであって、ふだんの心ではない。
われわれのふだんの心は、この世界や身体の存在感に追いつめられあえいでいる。
われわれは、身体の存在感から逃れたがっている。身体のことなど忘れている状態にこそ生きた心地がある。
足の痛みを感じながら歩くのと、足のことなど忘れてひたすら外の景色や考えことに意識が集中しているときと、どちらが生きた心地か。
直立二足歩行の効用は、足のことなど忘れながら歩くことができることにある。
身体の存在感を忘れてしまうことこそ生きた心地である。
われわれの心は、存在感の薄さに向かってときめいてゆく。
かわいいものは、存在感が薄い。
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「み」とは、やわらかいもののこと。
水はやわらかいものだし、実も熟せばやわらかくなる。
「あなた」の「耳(みみ)」のやわらかさはとくべつのもので、愛らしくてかわいい。
「見(み)る」とは、安心すること。見ることによって、心がやわらかくほぐれてゆく。
「面倒をみる」というときの「みる」は、「見る」とは少し違う。穏やかでやわらかい気持ちで世話すること、穏やかでやわらかい気持ちにさせてやること、穏やかでやわらかい関係になること、そういうニュアンスだ。
「試してみる」「行ってみる」というときの「みる」は、緊張や迷いがほぐれて行動を開始することをいう。
「みるみる」とは、スムーズに事態の困難がほぐれてゆくこと。そういう「やわらかさ」をあらわしている。
「身(み)」は、筋肉とか内臓とかの体のやわらかい部分のこと。
「身にしみる」とか「身持ちがいい」と「身に覚えがある」などというが、「骨」はまた別のもので、「骨にしみる」とか「骨が折れる」とか「骨がある」などという言い方がある。
「身(み)」が心を支え、「骨」が体を支えている、という意識が昔の人にはあったらしい。
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やわらかいものは、存在と非存在の中間のものである。やわらかいぶんだけ、存在の生々しさから免れている。
水は、命を守るためになくてはならないものであるが、それ以上にわれわれは、ジュースやお茶やコーヒーにしたりスープや味噌汁にしたりと、水とのかかわりをことのほか愛着している。その愛着は、命を守るためだけではない。その存在感の薄さに癒されるものがあるからだ。水の癒しは、存在感の薄さにある。命を守るためだったら、コーヒーやお茶を飲む必要もなかろう。
人間には、命を守ることよりも心が癒されることのほうが大事なときがある。
癒されるカタルシスが人間の歴史をつくってきた、ともいえる。人間が直立二足歩行をはじめたことも、地球の隅々まで拡散していったことも、じつは癒されるカタルシスによって起きてきたことであって、命を守るためだったのではない。
「水」は、「みづ」と書く。
「み」は、やわらかいもの。
「づ=つ」は、「付く」「着く」の「つ」、「接続」「到着」の語義。
「みづ」とは、大地に張り付いているやわらかいもの。コップに入れれば、コップに張り付いてゆく。張り付いてしまうくらいやわらかい。そのやわらかさが、人の心を癒す。
われわれが水に癒されるのは、「存在」に対する圧迫感を抱えて生きているからだ。
水のやわらかさには、そういう生々しい存在感がない。どんなふうにもかたちを変えて「自分」というものを持っていない。そういうあいまいさと自由さが、人の心を癒してくれる。
そういう生々しい存在感のないものを、「かわいい」という。
だから、かわいいものは、ちょっと嘘っぽいものがいい。そういうコンセプトで、携帯のストラップなどの小物が選ばれている。
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文字が存在する以前の社会では、ことばは存在するものではなかった。
そのときその場で出現して消えてゆくものだった。
そんなことばで語り合うことは、この世界や身体の存在感(=物性)の圧迫感から解放される体験だった。
ことばという非存在と戯れること、それは、今ここで出現して消えるものだった。
日本列島の文字の歴史は、1500年しかない。それも、自分たちが欲しくてつくったものでははなく、外から入ってきたものだった。
やまとことばは、文字が輸入されるまでの1万年を、非存在の、出現しては消えてゆくたんなる音声としての歴史を歩んできた。
日本列島の住民が文字を持とうとしなかったのは、それまでは共同体の支配がゆるやかで、文字をもつ必要がなかったからだ。文字がなかったということは、支配などなかったということを意味する、といってもよい。リーダーによる住民に対するサービスがあっただけだ。そのようにして共同体が成り立っていた。
天皇は、権力者として発生してきたのではない。天皇が権力者になっていったのは、仏教と文字が輸入されてからあとの時代のことだ。仏教によって天皇は信仰のリーダーの座から降り、その代わり文字によって権力を手にしていった。
それまで人々は、世界や身体の存在感に追いつめられながら、ことばが今ここで出現して消えてゆくというその非存在性・即興性に癒し=カタルシスをくみ上げて暮らしていた。
海に囲まれてしかも山ばかりのこの狭い島国には、地平線というものがない。つまり、大地に立つことの解放感がない。山ばかりの大地の存在感は、ひとつの圧迫だった。
山ばかりのこの狭い島国で暮らすことは、圧迫感の中で暮らすことだった。だから彼らは、身体の物性に対するうっとうしさにもことのほか敏感になり、いつも身体の「けがれ」という意識と向き合っていなければならなかった。
そういう状況から、今ここの小さきものの出現にときめく感受性が育ってゆき、文字を持たないでことばの非存在性・即興性の中で生きてゆこうとしていたのだ。
世界や身体が存在することのうっとうしさを深く自覚したところから、この国の歴史の水脈である「かわいい」というときめきが生まれてくるのであり、それは、現代社会に生きているわれわれが自覚すべき問題でもあるに違いない。
しかし、今のところそれを自覚しているのは若者たちだけだ。大人たちは相変わらず上の空のまま、肥大化した自己意識(自我)で、この世界や身体の存在感にしがみついて生きている。
「かはゆし」とは、ひとつの空間感覚である。
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意識は、「ある」という存在感=物性に対するストレス(違和感)として発生する。そうして、「ない」という空間性に向かって鎮静化してゆく。
現代社会は、「ある」という物性を止揚しすぎた。そこから、認知症鬱病やパニック症候群や自殺やらEDやら、さまざまな現代病が生まれている。
われわれは、「ない」という空間性に向かう鎮静化のタッチを喪失している。
身体の物性に鈍感だからそうした社会的な病理が生まれてくるのではない、逆に身体の物性に執着しすぎて、「空間性」に対する感受性が欠落しているからだ。
大人たちの、その、「有用性」という「物性」に対するむやみな偏執や、家族の絆がこの社会を救うという倒錯的な思い込みや、身体に執着して長生きしようとする意欲は、けっきょく「ある」という物性に幽閉された現代社会の病理をなぞっているにすぎない。
現在のこの社会は、「物性」に対する執着でおおわわれている。
たとえば、コミュニケーションという「物性」。人はコミュニケーションの能力を持てばいいかといえば、そうともいえない。かんたんに人をだましたりたぶらかしたりできるということは、コミュニケーションの能力が発達しているということなのである。
そういう能力を持った人間が増え、そういうややこしい事態が増えているのは、コミュニケーションの「物性」に誰もがとらわれてしまっているからだ。
「家族の絆」という物性がうっとうしくて、子供たちは自分の部屋に閉じこもろうとするのだし、ときに親を殺してしまったりもするのだ。
また、そんな絆という物性をもってしまった家族の中で育てられるからこそ、なかなか自立できなくなったり、自立しているように見えてじつはただの社会に飼いならされた動物としてして過労死するまで働き続けてしまうような人生を歩まねばならないことにもなる。
人と人の関係を、「絆」という物性に閉じ込めてしまっていいのか。
人と人は、たがいの身体のあいだに、癒される「空間」を必要としている。
水は、その「空間性」によって人の心を癒す。
人は、「空間性」に癒される。そしてそういうことは、「かわいい」とときめいているギャルたちがいちばんよく知っている。