祝福論(やまとことばの語源)・「かみ」の起源

コメント欄を閉鎖してみたのだけれど、どうも落ち着きません。
なんだかモノローグを書いているようで、「発信している」という緊張感が薄れてしまう。
これはちょっと違うんじゃないか、という気がしてきました。
嫌がらせのコメントはほんとにうんざりなのだけれど、それはもう引き受けて、なおまめに消し続けるしかないのかもしれない。
朝令暮改、たった一日で方針転換するというのも、まったく情けないくらい浅はかなことだが、どうもむなしい。こんなことをしながら僕はだんだん緊張感をなくしてゆき、ページの更新もだんだん間隔が開いてくるのかもしれない。
日々の日記を書いているわけではないのだから、考えることをやめたら、とたんに書くことがなくなってしまう。
コメント欄というのは、コメントをもらうためにあるのではなく、「あなた」とのあいだの通路(空間=すきま)としてあるのだ、ということがわかったような気がしました。
こんな尻の座らないことをしていて、あきれて去ってゆく人も少なからずいるだろうし、嫌がらせのコメントも勢いづくのだろうけれど、仕方がない、僕の人格なんて、しょせんそのていどのものです。
山姥さんがもし見ていたら、バカなやつめ、と思うことだろう。まったくその通り、僕は愚かな人間です。
われながらほんとにあほだなあと嘆きつつ、コメント欄を再開します。
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人類はいつごろ「かみ」ということばを持ったか。
それは、ひとつの観念行為として「神という対象」をつくりだした、ということではない。
「かみ」という「ことば=音声」がこぼれ出る体験をした、というだけのこと、そこが、「神の起源」だ。
それはたぶん、熱帯のアフリカから拡散していった人類が、50万年前にとうとう氷河期の北ヨーロッパにまで住み着くようになったところからはじまっている。
そこは、およそ人間が住み着けるはずのない極寒の地であった。それでも彼らは住み着いていった。体や心が適合していたからではない。体も心も、その耐え難さに嘆くばかりだった。嘆きながら、住み着いていった。
住み着いたからいくぶんかは適合できる体質になってきたのであって、適合できる体質を持っていたから住み着いていったのではない。その極寒の環境を体験したことのないものが、それに適合できる体質になるはずがないではないか。そんなことは論理的にありえないだろう。
人類学者たちは、遺伝子の突然変異でそんな体質になったからそこに住み着いていったのだ、というようなことばかりいっている。
そうじゃない。遺伝子の突然変異だって、そこに住み着いたから起きてくるのだ。
遺伝子の突然変異くらい、チンパンジーにだって起きるんだぜ。チンパンジーだって、我慢してそこに住み着いていれば、何万年後何十万年後にはそういう体質になってくるさ。遺伝子の突然変異は、「結果」であって、「原因」ではない。遺伝子の突然変異くらいどんな生きものにも起きるのであり、そうやって原初の微生物が、現在の地球上の多種多様な生きもの群へと進化してきたのだろう。
遺伝子の突然変異は、神から人間だけに与えられた贈り物であるのではない。言い換えれば、「神」という概念を考えることの土台に持ってしまっている西洋人は、どうしてもそういう発想をしてしまう。それが、彼らの限界だということにも気づかずに。
人間は、我慢してそこに住み着いたのだ。だから、そういう体質になっていっただけのこと。
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人間は「嘆き」からカタルシスを汲み上げてゆく心の動きをダイナミックに備えている。
だから、氷河期の極寒の地に住み着いていったのであり、チンパンジーはそんなことはしなかった。
人類は、住みよい土地を求めて拡散していったのではない。住みにくいことの「嘆き」から深いカタルシスが生まれてくるから、気がついたらそんな北の果てにまで住み着いてしまっていたのだ。
人間にとって「住む=棲む」ことは、「嘆き」からカタルシスが生まれてくることだった。だからそれは「澄(す)む=清(す)む」ことでもあった。
「嘆き」がなければ「ときめき」もない。「汚れ」がなければ、「清らか」もない。「穢れ」の自覚がなければ、「みそぎ」のカタルシスを体験することもできない。
「澄(す)む」とは、「清らかである」ことではない、「清らかになる」ことなのだ。「む」は、「静止」「終結」の語義。立ち止まって清らかになってゆくことを、「すむ」という。
人間にとって「住む」ことは、穢れた身の「みそぎ」をすることなのだ。そうやって、氷河期の極寒の地に住み着いていった。そこが住みよい土地だったからではない。そんなこと、あるはずないじゃないか。
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極寒の地に住み着けば、みずからの身体も含めた世界の「物性」のわずらわしさをいやおうなく思い知らされる。その「嘆き」を抱えて彼らはそこに住み着いていった。
彼らはその寒さを、チームワークで狩をした脂の乗った大型草食獣の肉をたらふく食うことや、人と抱きしめあうことによって克服していった。
彼ら(ネアンデルタール)は、人類史上、もっとも深く抱きしめあうことのカタルシスを体験しているものたちだった。
「住む=澄む」、彼らは、そのカタルシス(浄化作用)によって住み着いていった。
彼らにとって抱きしめあうことは、「かみ」という体験だった。
いや、彼らは「ゴッド」といった。「ゴッド」すなわち「こと」。寒いから、自然に濁音になってしまったのだろう。
抱きしめあうこと、それが「ゴッド=こと」だった。
もしかしたら、「もの」と「こと」ということばに、英語とやまとことばの差異はないのかもしれない。
英語の「カット」は、「切る」こと。「カット」=「こと」。そして、やまとことばの「もの」の語源の意味が「まとわりついてくるもの」ということにあるのなら、「モノローグ(ひとりごと)」とは、ことばが自分にまとわりついてくることだろう。
たぶん原初の西洋人(ネアンデルタール)だって、まとわりついてくるものは「もの」といっていたのだ。
そして、まとわりついてくるものが引きはがされることを「カット(=こと)」といった。これは、やまとことばのタッチと同じだといえる。
「カット」=「ゴッド」「ゴッド」もまた、身体の「物性」が引きはがされるカタルシスのことをいったのだろう。
「あなた」と抱きしめあえば、「あなた」の身体ばかり感じて、「わたし」の身体のことは忘れている。そのとき「わたし」の身体は、「空間」の輪郭としてあるだけだ。彼らは、そういうカタルシス(浄化作用)として、「抱きしめあう」という体験をしていた。
抱きしめあうことの「空間性」、それを彼らは、「ゴッド」といった。
「ゴッド」は、やまとことばの「こと」と同じなのだと思う。
やまとことばだって、まとわりついてくるものが引きはがされる(物性が解体される)体験を「こと」といったのだ。
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抱きしめあうことは、みずからの身体の「物性」が解体されて、他者の身体の「物性」がよりたしかに浮かび上がってくる体験である。そのときみずからの身体の「物性」は、他者の身体の「物性」によって解体される。他者の身体の「献身」によって、と言い換えてもよい。たぶん、そんなところから「神との契約」という概念が生まれてきたのだろうし、彼らの文化が世界の「物性」を止揚してゆくものになっていったゆえんでもあるのだろう。
そして、他者との関係は「教える=学ぶ」の関係であると多くの知識人がいっている思考も、そのような「抱きしめあう」体験から「神(ゴッド)」を見出していった歴史の上に成り立っているのではないかと思える。
他者の身体は、その「物性」を私に教えてくれる。そしてわたしは、それを学ぶことによって、カタルシスを体験し、救済される。そういう関係が、彼らの思考の基礎になっているのではないだろうか。そうやって、ネアンデルタール=クロマニヨンは、数度の氷河期を潜り抜けながら、50万年の歴史を生き延びてきたのだ。
しかしそれは、縄文人が見出していった「かみ」とは少しちがう。(つづく)