やまとことばという日本語・「あをによし」というまくらことば

「青(あお)」ということばの語源は、「仰(あお)ぐ」という動詞だった、たぶん。
青い空を仰(あお)ぐ。
[あお」とは、空を仰ぐこと。
「あ」は、「あ」と何かに気づく感慨からこぼれ出る音声。
「お」は、「おーい」と呼ぶように、「はるかに遠い」という感慨。
「青(あお)葉」とは、緑色の葉という意味ではない。天に向かって成長しようとしている若葉のことです。若葉は、薄い黄緑で、青々となんかしていない。それでも「あおば」という
「青春」とは、未来に向かって志を抱いたり、空を仰いで嘆いたりする時期のこと。
「青いなあ」といえば、まだまだ若い「青二才」だ、という意味。
若くて未熟なことを「青い」という。それは、いろんな意味で空を仰ぐことでもある。
「あおる」とは、天に舞い上がらせること。
「青丹(あおに)よし」は、「奈良」にかかるまくらことばだが、この場合青や赤(丹)の色を意味しているのではないはずです。
あおによし 奈良の都は 咲く花の 匂うがごとく いま盛りなり
という歌は有名だが、「あおによし」ということばは、奈良の都(平城京)が生まれるずっと前の古代の「祝詞(のりと)」の中にもあるらしい。
そのころに、赤や青を塗りたくった建物などなかった。
「あおによし」は、神に捧げることばだった。
「よし」は「よい」という意味ではなく、「よし、がんばるぞ」というときのような強調の間投詞であるのだとか。「あお」もしくは「あおに」を強調する「よし」。
この場合の「あお」は、たぶん「仰ぎ見る」という意味だろう。つまり「あおによし」とは、「感慨深く仰ぎ見る」ということ。今ここで確かに神のありがたさを仰ぎ見ております、というような感慨から生まれてきたことばではないだろうか。
この歌は、山に登って奈良の都を眺めて歌っているのか、それとも、都の中心に立っているのか。
おそらく、後者でしょう。都の中心に立って空や山を仰ぎ見れば、いやがうえにも神に祝福された都の繁栄が実感されてくる……という歌でしょう。
この歌でいちばん重要な表現は、「あおによし」というまくらことばであり、それは、「神を仰ぐ」という感慨を表している。それが、「あおによし」という言葉の「言霊(ことだま)」なのだ。
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「あおによし」は、たぶん、山なみを仰ぎ見る感慨を表すことばです。
山には神が住んでいる、という感慨。
奈良盆地が「まほろば(理想郷)」といわれたゆえんは、四方を囲む山の眺めが格段にすばらしかったことにある。この地に立ってまわりのたおやかな姿をした山なみを眺めていれば、「ここで世界は完結している。もうどこにも行きたくない」という感慨にひたされてしまう。日本中からやってきた人々がそういう感慨とともにこの地に住み着き、大和朝廷が生まれていった。この地が豊かに作物が実る土地だったから、人が多く集まったのではない。古墳時代までは、ほとんどが不毛の半湿地帯だったのです。それでも、その当時の日本列島において、もっとも人口密度の高い地域だった。
豊かな土地だったから人がたくさん集まってきたのではない。山に対する信仰を持っていた古代人にとっては、誰もがそういう深い感慨を抱いてしまう土地だったからです。
また、そのころ奈良盆地がもっとも水田耕作の発達していた地域であったのは、湿地帯だったから、米を作るしかなかっただけのことです。そして米を作ることによって共同性が発達し、大和朝廷を生み出していった。
大和朝廷が外部からやってきた侵略者によってつくられたなどとよくいわれるが、古代人を無理やり支配しようとしても、みんな逃げ出してしまうだけです。なにしろそれまでの日本列島は、縄文時代という共同体を持たない歴史を8千年も歩んできたのですよ。民衆じしんに共同性が芽生えてこなければ共同体などつくれない歴史情況だったのです。
17世紀に南米大陸に進出したスペイン人が現地のインディオを虐殺しまくったのは、支配しようとしてもできない相手だったからです。できれば支配して、労働力として使いたかったに決まっています。
大和朝廷が成立するまでに、奈良盆地の住民に対する虐殺の歴史があったでしょうか。そういう過程もなく、いきなり侵略者が支配して共同体が生まれてくるなどということがあるはずない。
古代の奈良盆地においては、一人一人がその地に深い愛着を抱き、一人一人に共同体をつくってゆこうという意思があったから、どこよりも早く大きな共同体がつくられていったのだ。
大和朝廷は、強力な支配者がやってきたから生まれたのではなく、住民の共同性がどこよりも早く成熟していった土地だったからだ。
古事記日本書紀で侵略者がうちたてた国のように語りたがるのは、後世の人がそういう物語で国のはじめを装飾しようとしているだけのことで、それはまた別の問題でしょう。
大和朝廷は、日本列島最初の都市国家です。つまり、都市国家というものを誰も知らない時代に生まれてきた都市国家です。都市国家のつくり方を知っている支配者によってつくられたのではない。そんな人間などひとりもいない時代に生まれてきた都市国家だったのだ。
気がついたら、都市国家になっていたのだ。
現在の歴史家たちは、「どこかに都市国家をデザインする支配者がいて、そのものたちによって大和朝廷がつくられていったのだ」というような言い方ばかりしている。僕は、こういう歴史観を、腹の底から軽蔑している。
弥生時代から古墳時代にかけてのそのころ、なぜか奈良盆地に多くの人が集まって住み着くようになり、そこでの暮らしの中から人々に「共同性」が芽生えてきて、そういう意識が結集していっていつのまにか大和朝廷が生まれていた。
大和朝廷は、どこかの支配者がつくったのではない。そこに住み着いた人々の暮らしの中から、いつのまにかそういう都市国家のかたちが生まれてきたのだ。
そういう共同体が生まれたから支配者が現れてきたのであって、支配者が共同体をつくったのではない。こんなこと、ちょっと考えればあたりまえのことでしょう。
人は、共同体が生まれたから「権力」を知ったのであって、「権力」に目覚めたから共同体をつくったのではない。共同体という「構造」が権力をつくるのであって、権力が共同体をつくるのではない。
どこかに支配者や英雄がいて大和朝廷をつくったなんて、あほじゃないかと思う。
はじめに権力闘争があってそこから大和朝廷がつくられていったのではない。大和朝廷が生まれたから、権力闘争があらわれてきたのだ。
共同体が支配者を生み育てたのであって、はじめに支配者がいて共同体ををつくったのではない。
大和朝廷は、奈良盆地に住み着いた人々がつくったのだ。どいつもこいつも、何をくだらないことを言ってやがる。
古代の奈良盆地は、まわりを囲むその山なみの姿によって、どこよりも深く豊かに「神のことほぎ」が胸に満ちてくる場所だった。その「ことほぎ」を共有して人びとが寄り集まり、やがて大和朝廷が生まれてきた。
人類の歴史における共同体という大きな集団は、土地の生産性によって生まれてきたのではなく、神に対する感慨を共有するというかたちで生まれてきたのだ。
良くも悪くも、人間は、そのように「パン」のみによって生きているわけではない生き物なのだ。
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「あおによし」は、奈良盆地ならではの感慨から生まれてきたことばだったから、「奈良」のまくらことばになっていった。それは、青い山なみを仰(あお)ぎながら、神に対する感慨を表出することばだったはずです。
「あおによし」の「青(あお)」は、「仰(あお)ぐ」という動詞だった。
空であれ山であれ、古代人にとっての「青(あお」は、仰ぎ見て知らされる色だった。
日本列島の古代人がもっとも愛着した色は、「紫」です。紫は、高貴な色とされていた。
ある学者はそれを、日本列島には紫色の花が多いからだと説明していたが、紫色の花がとくに尊ばれていたわけでもない。
それは、仰ぎ見る山の色だったからだ。山が紫色に見えるとき、もっとも神々しい姿になる。日が昇るとき、日が沈むとき、山は紫色になる。
また、小津安二郎の映画で「京都の山はいつも紫色に見えるわね」というせりふがあった。地下水が豊かな京都は、空気もしっとりとうるおっていて、いつも山が紫色に見えるらしい。