祝福論(やまとことばの語源)・「かわいい」19・くはし1

生きものが生きてあることは、ひとつの自傷行為である。
そういい切ったところから考えはじめたほうがいいように思える。
生きるとは、身体を消費するという、ひとつの自傷行為だ。
そして、人間ほどダイナミックに自傷行為を繰り返している生きものもほかにはないだろう。
原初の人類が二本の足で立ち上がったことは、その姿勢の不安定さと、胸・腹・性器等の急所を外にさらすというきわめて危険な状況を受け入れることであり、それ自体まさに自傷行為だった。
しかし、それによって人類は、世界や他者により深くときめいていった。
そのストレスによって、やがてこの地球を席巻するほどの知能を獲得していった。
セックスの快楽は一種の自己処罰であり、女が子を産むことも、自己処罰であり自傷行為にほかならない。
セックスをして人間ほど息もたえだえにあえぎ続ける生きものなんかほかにいないだろう。子を産むことに、人間ほどの苦しみを味わっている生きものなんか、ほかにいないにちがいない。
それでも女は、子を産むことを決心するわけで、それは、自己処罰の衝動なしには成り立たないはずだ。
人間の自己処罰の衝動は際限がなくて、ときに自殺するところまでいってしまう。
人間は、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いを深く抱え込みながら生きている。
原初の人類は、「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いとともに二本の足で立ち上がった。そういう思いがなければ、そんな姿勢を常態にすることなんかできないのであり、それは、自然から逸脱することではなく、むしろより深く自然に寄り添ってゆく行為だった。
生きものが生きることは、自傷行為なのだ。そして人間は、ほかの生きものよりもっと深くそうした「自然」に寄り添って生きている。
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かんたんに「快感原則」などといってもらっては困る。人間は、みずからストレスを抱え込み、ストレスから快楽(カタルシス)をくみ上げてゆく生きものでもある。
その習性はもう、原初の直立二足歩行からはじまっている。その自傷行為は、自然から逸脱してゆく行為ではなく、自然に寄り添ってゆく行為なのだ。
したがって、縄文人だってストレスとともに生きていたはずだ。
だからこそ「かわいい」という心の動きを持っていたに違いなく、そのときめきでヒスイの玉などをめでてネックレスやペンダントにしていた。
ただ、「かわいい」というとめきはともかく、「美しい」という概念が生まれてきたのは、本格的に定住して大きな集落の共同体をいとなむようになってきてからのことかもしれない。
そういう暮らしのストレスの中に投げ込まれることによって、おそらく「美しい」という感慨が本格化してきた。
美しいものは、そういう共同体の中にいることの息苦しさから解放してくれた。
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日本列島の住民は、遠い昔から「自分はここにいてはいけないのではないか」という思いとともに生きてきた。その思いを処理し、そこからカタルシスをくみ上げてゆくことが、この国の歴史の水脈になっている。
「美しい」ものは、生きてあることにカタルシスをもたらす。そういうカタルシスの体験とともに「美しい」という概念が浮かび上がってきた。
万葉集古事記のころは、美しいことを「くはし」といっていた。
現代語の「詳(くわ)しい」のもとになったことばで、平安時代には、すでにそういう意味で使われるようになっていた。
だから、もともとの「美しい」という意味も「繊細で細やかなもの」をさしていたのだろうといわれている。
しかし、万葉集には「くはしき山」という表現がある。
山が「細やか」というのは、いささか無理がある。
古代人は、どのようなものを美しいとしていたのか。
その前に、このことばが生まれてくる契機は、「くはし」という音声を発する感慨にある。それが、語源だ。
「く」は「組(く)む」「苦(くる)しい」の「く」。
「く」と発声するとき、胸がふさがれるような心地がする。それが、「く」という音声が表出している感慨である。
日本列島の住民は、弥生時代になってはじめて、大きな集落をつくって農耕定住生活をするようになった。その息苦しさが「く」という感慨であり、それまでの縄文時代8千年を小さな集団の気ままな暮らしの歴史を歩んできた人々にとって、その息暮らしさは並々ならぬものがあったに違いなく、そこから解放されるカタルシスとともに「くはし」という音声がこぼれ出てきた。
「は」は、「はかない」の「は」、「空間」「空虚」「解放」の語義。
「く」と発声する息がつまった心地が、「は」と息を吐き出して解放感を得る。
「くはし」とは。そのようにして閉塞感から解放感にいたる体験からこぼれ出てきた音声なのだ。
「くはし」とは「安堵」、これが語源だ。
そういう安らぎをもたらしてくれる対象を、古代人は「くはし」と形容した。
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それは、「大きなもの」「偉大なもの」「豊穣なもの」を意味したのではない。日本列島の住民の閉塞感や喪失感は、そういうものによって癒されたのではない。
「くはし」という美は、西洋のような「偉大なもの」や「豊穣なもの」ではなかった。そんなものに圧倒されていたら、よけい息苦しくなる。
逆に、さっぱりと消えてなくなるかたちを「くはし」といった。存在感(=物性)の確かな硬いものより、存在感(=物性)のあいまいな「やわらかさ」を「くはし」と形容した。
「詳(くわ)しい」のもともとのニュアンスは、「豊穣」というのではない。
「くはし」とはあくまできれいさっぱりとなくなってしまう感慨から生まれてきたことばであり、そのことばが持っている「くわしい」というニュアンスは、「あれこれややこしいことがよく整理されている」ということにある。
「くはし」とは、混乱・混沌がほぐされること。そういう「やわらかさ」のこと。だから、土を耕す道具のことを「鍬(くわ)」という。
「くはし」とは、細かくほぐすこと。「細やか」というニュアンスも含まれるが、それが語源のかたちではない。
したがって万葉集古事記でいうところの「くはし女(め)」という美女は、「細やかな女」というニュアンスではない。そんな美女のものさしは、良妻賢母とかいう儒教思想によってふくらんできただけのこと。
日本列島の住民は、物の存在感(=物性)に対する息苦しさにことほか敏感である。だから「み(実・身)」という「やわらかさ」を意味することばを愛着していった。「存在感(=物性)」からの解放こそこそ、日本列島の美意識の基礎になっている。
であれば、「くはし女(め)」という美女のイメージも、「やわらかさ」を感じさせるところにあったはずだ。
身体的な特徴にせよ、日本列島の美女のイメージの原点は、「やわらかさ」を感じさせるところにある。そういうニュアンスで想像すれば、「ふくよかな」といわれる古代の美女の姿かたちも、なんとなく見えてくるはずだ。
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万葉集に、「くはしき山」が旅立ちを祝福してくれている、というニュアンスの表現が出てくる。
この場合の「くはしき山」がどんな姿をしているかといえば、おそらく、なだらかで優美な稜線を持った緑の山、という感じだろう。信濃アルプスの屹立した岩山、というイメージではない。
「くはし女(め)」も、たぶんそんな優美でやわらかい姿をした女のことをいったのだ。
かつてのやまとことばの権威である大野晋先生のように、安直に「くはし」を「細やか」といってしまうのは、正確ではない。学者の想像力なんて、しょせんこのていどなのだ。文献に頼るものは、文献につまずく。中西進先生や奈良女子大学小林紀子先生、文句があるならいってきてください。(いってくるはずないか)。
山のそばで暮らしているものにとって、山は、閉塞感をもたらす立ちはだかる壁であると同時に、ここが世界のすべてだという安らぎを与えてくれる神の棲む場所でもあった。そういうカタルシスを与えてくれる姿をした山のことを「くはしき山」といった。その優美な稜線やいただきの向こうは何もない空間であり、あの向こうはもう「何もない」、と感じることこそ、山に抱かれて暮らすものの安らぎだった。
この女のほかに女はいない、と思わせられる女こそ、「くはし女(め)」だった。
美しい姿をした山や女を見ていると、その姿の向こうにはもう「何もない」と思ってしまうカタルシスを与えてくれる。そういう体験を「くはし」といった。「くはし」の「は」は、「何もない」ということ。(つづく)