「ケアの社会学」を読む・42・影響力という権力

   1・one of them
人間は、根源において、猿よりも弱い猿である。そのようにして二本の足で立ち上がるという歴史がはじまった。
人間は、「生きられない」弱い猿である。「生きられない」という自覚の上に、人間の生きるコンセプトが成り立っている。
誰もがそのコンセプトの上にこの生を紡いでいる。誰だって「生きられない」生をがんばって生きているのだ。
はえてして「世の中の他人はのうてんきに生きてやがる」と思いがちである。そりゃあ他人の気持ちなんかわかるはずもないのだから、そう思ってしまうのも無理はない。しかし人間は、根源において「生きられない」生をがんばって生きている存在なのだ。
のうてんきに生きられる人間なんかひとりもいない。
悲劇の主人公を気取るのも的外れだが、幸せだといって自慢するのも、何かをごまかしている。
内田樹先生は、「自分は人とは違う、という思いを持たせてやるのが教育者の責務であり、読書や勉学の醍醐味はそこにある」といっておられる。
まあこの世の中は、ほとんどの人が「自分は人とは違う」という思いを根拠にして生きているのだろうし、そうやって世の中が動いているのかもしれない。
現代社会の消費行動のダイナミズムは、「自分は人とは違う」という思いを確かめようとする衝動の上に起きてくる。差異化の衝動……そうやって、おしゃれな服を買い、車を買い、家を買う。
その、自分を差異化してゆこうとする衝動こそ、現代社会の病理である。病理であるから、いまどきの大人たちはちっとも魅力的ではなく、そんな大人たちを見て育った若者の消費衝動は沈みがちである。
そういう世の中ならそれでもいいのだが、それが人間性の本質だと決めつけられると、ちょっと待ってくれといいたくなる。
そうやって誰もが自分にこだわりすぎる社会だから、人と人の関係がぎくしゃくしてくるし、自殺したり鬱病になったりする人も増えてくる。
「自分は人とは違う」と思いたいということは、「自分は正義の側に立っている」と思いたいということだ。正義ぶって反体制の言説を吐き、大衆を見下したようなことをいう。
誰だってがんばって生きているんじゃないか。「自分は人とは違う」ということなどありはしない。
誰だって自分は「one of them」にすぎない。その他大勢のひとりなのだ。そして、そう思い定めた向こうに人間の普遍性が見えてくる。
誰だって、他人が見るよりはずっとしんどい思いをして生きている。人間は、しんどい思いして生きている生き物なのだ。
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   2・時代と民衆の無意識
この世の中はリーダーによって動いている、という信憑があるから、リーダーにあこがれ、「自分もまた人とは違う」と思いたい。リーダー自身はもちろんのこと、リーダーでなくとも自分はリーダーと同じ人種だと思いたいのだろう。
哲学であれ思想であれ文学であれ、作家の研究が学問になっているのは、その作家と自分が同じ人種だと思いたいところからきているのだろうか。作家=リーダーが世の中を動かしている、という前提があるからそういう学問が成り立つのだろう。
しかし、リーダーが世の中(=時代)をつくっているのではない。世の中(=時代)がリーダーをつくっているのだ。そしてその世の中(=時代)とは、その他大勢の大衆の動向のことだ。
たとえば、言葉はリーダーが生み出したのではない。その他大勢の大衆の無意識から生まれてきた。
「りんご」と名付けた最初の人間なんか存在しない。気がついたらみんながそれを「リンゴ」と呼んでいた。
いきなり「りんご」という言葉が生まれてきたのではない。
最初は、「あー」とか「うー」というたんなる唸り声でそれを表現していた。そこから、長い年月をかけて「りんご」という言葉=音声になっていった。
そこにいたるまでは、まあいろいろ勝手に呼び合っていたのであって、いきなり「りんご」と誰かひとりが発してはじまったのではない。それが「りんご」という音声に落ち着いていった法則は無意識の問題としてあるにちがいないが、そこにいたる集団の歴史過程があるのであって、いきなり個人が発明したのではないのだ。
少しずつ灰汁が浮かび上がってくるというか、少しずつ沈澱してゆくというか、そういう歴史過程があった。
英雄やリーダーだって、歴史(時代)が生み出したのであって、彼らが歴史(時代)をつくったのではない。織田信長が活躍できる時代がはじめにあったのであって、織田信長が時代をつくったのではない。時代は、そこで生きている人々の総体として動いてきた。
つまり、人と人が結束するダイナミズムが生まれて時代が変わるのであって、リーダーの作為や予言によって変わるのではない。
ヒットラーがドイツの民衆を結束させたのではない。結束しようとしていた民衆の中にヒットラーが投げ入れられただけのこと。それほどにドイツの民衆は追いつめられていた、という「状況」があった。
時代をつくる人間なんかいない。みんな時代の子なのだ。
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   3・人と人の連携と結束が時代を変えてゆく
いまどきは、資本主義の未来はこうなるべきだとかああなるべきだとか、経済学者や社会学者が預言者を気取ってあれこれいっているが、時代を変えるのは人々の結束であって、やつらの予言によるのではない。こうなるべきだ、といっても、けっしてそうはならない。時代=歴史は、人々が結束できる方向で変わってゆくのだ。
時代=歴史は、なるようにしかならないのだ。そしてなるようになるのは、そうなるべきだからでもそうなった方がいいからでもなく、ただもう、人々の結束によってなるようになってゆくだけだ。
われわれは今どのように結束しようとしているのだろうか、根源的にはどのようにして人と人の結束が生まれてくるのだろうか……問われるべきはまずそのことなのだ。
あるべき社会像なんか、絵に描いた餅だ。あるべき社会になんかならない。人々が結束していった結果として、なるようになっていくだけである。
大不況が来たって、人と人が結束できる社会であれば人々はそれを受け入れるし、耐えることができる。結束できないのなら、人間社会は滅びる。
歴史は、よかろうと悪かろうと人と人が結束できるようなかたちで動いてゆくのであって、リーダーの予言に導かれてあるべきかたちに着地してゆくのではない。
この国のあるべき未来像なんか、どうでもいい。未来は、彼らの決めた通りにはならない。
「未来を構想する」とか何とか、いまどきは、上野千鶴子氏をはじめとしてじつに多くの人々が預言者ぶってかっこつけることばかりいいたがる。
つまり、他者の心に対して影響力を行使できるつもりでいる。それは、現代社会の病理だ。そうやって人と人の関係がぎくしゃくしてしまっている。他者の心を支配することなんか、誰もできない。
権力にへつらう人間ほど権力的にふるまいたがる。だから上野氏は「老人には介護される権利がある」といいたがる。それは、まわりの人々の介護せずにいられない気持ちの上にしか成り立たない関係なのに。
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   4・新しい社会を構想する、という病理
言葉は、誰かが生み出したのではなく、なるようになってきた。同様に、新しい社会も、リーダーに導かれながらあるべき社会になってゆくのではなく、人々が結束してゆくかたちでなるようになってゆく。
あるべき社会になどなるはずがない。たとえば、誰も常軌を逸したバブル景気の浮かれ騒ぎを止められなかったし、誰もバブルの崩壊を止められなかった。あるべき社会を構想してその通りになるのなら、戦争も恐慌も起きるものか。
「新しいあるべき社会を構想」したって無駄なことだし、自分が世の中を動かしているつもりの思い上がった知識人のその発言を感心しありがたがってそれに追随しながら自分もいっぱしのリーダーか識者になったつもりのプチインテリがうじゃうじゃいる世の中だ。
そんな「構想」など、ただの気休めにすぎない
どうしてそんな空々しい空想譚に情熱を燃やすのだろう。ほんとうは誰もが「いまここ」をどう生きるかということがいちばん気になっているはずなのに。
明日なんかわからない方がずっとおもしろい。なのに現代人は、明日も生きてあるつもりのスケジュールを紡ぐことばかりにとらわれてしまっている。
新しい社会(時代)の姿は、「いまここ」をけんめいに生きている人たちの無意識の集合の中に潜んでいるのであって、世の中をリードしているつもりのものたちの薄っぺらな「構想」の中にあるのではない。
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   5・影響力
人々の結束のダイナミズムはどのようにして生まれてきているのか、それが問題だ。
しかし現代人は、自分がその他大勢のひとりだという自覚があまりに希薄だ。誰もが世の中を動かしている(¬=構想している)人間のひとりのつもりでいる。
民主主義とは「政治への市民参加」ということらしいのだが、そのスローガンによって誰もが世の中を動かしている人間のひとりになったつもりでいる。
ほんとうは、世の中(時代)が人間を動かしているだけなのに。
誰もが正義を手にしたがっている。正義を手にしなければ、世の中は動かせない。正義を手にしたつもりになって、未来の世の中を構想する。
しかしそれでも、世の中は人間が構想する通りには動いてゆかない。自分の人生すらも、構想通りにはゆかない。
そうして、構想通りにゆかないことに苛立ち、体制を批判し、大衆を批判している。人と人のつながりよりも、人を動かそうとしている。人を動かす影響力を持ちたがっている。影響力を持つことが人とつながることだと思っている。
影響されている人間ほど、他者に対して影響力を持ちたがる。内田樹先生はレヴィナスに影響を受けているからこそ、読者やまわりの人間に対して影響力を持とうとする。つまりレヴィナスを権力と崇め、自分も権力になろうとしている。そして内田先生から影響を受けた読者もまた、まわりの他者に影響力を行使しようとしている。
上野千鶴子氏だって、影響力を持つことが人とつながることだと思っている。
影響されている人間ほど、影響力を行使したがる。
誰もが影響力を持ちたがっている。それが、「民主主義の市民社会」らしい。
彼らにとっては、影響力を行使する対象として他者が存在するのであって、基本的に他者の存在そのものに対する好奇心はない。
彼らは、人間とは何だろう、とは考えない。人間のあるべき姿を説く。自分を「あるべき姿」につくり、他者に影響力を行使して、他者もまた「あるべき姿」になることを要求する。
彼らは、人間に対しても社会に対しても、「あるべき姿」ばかり思い描く。人間や社会の真実などどうでもいいのだ。
人間や社会の「あるべき姿」など真実ではないし、人間も社会もその通りにはならない。
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   6・正義から疎外されている人たち
彼らは、人間は影響力を持ったものに影響されると同時にみずからも他者に対して影響力を行使する存在だと思っている。そうして、誰もが「あるべき姿」になればいい、という。
しかしそれでも人間は、「あるべき姿」にはならない。ただもう、人間であるだけだ。
誰もが幸せに安らかに生きられればいいといっても、じつはいつまでたっても人間はしんどい思いをしながら生きている。そしてその「しんどい思いをして生きている」というところで人と人はより深く確かにつながり合っている。
人と人は、「あるべき姿」を要求し合ってつながりあってゆくのではない。こう生きるほかないという姿を許し合いながら連携し結束してゆくのだ。
正義の側に立つものどうしほど友情や連携が深いわけではないだろう。
なんのかのといっても人と人は、けっきょく、たがいに罪を自覚したがいに許し合うところで、もっとも深く確かに友情や連携が結ばれてゆくのだ。
たとえば、マフィアとか許されない恋に落ちた二人とか迫害されている宗教者たちとか、彼らの連携や結束がなぜ深いかといえば、正義から疎外されているという罪を自覚するものたちだからだ。
人と人は、正義から疎外されたところで深く確かにつながり合っている。人と人は、許し合うというかたちでつながりあってゆく。
人間社会の連携や結束が他の動物よりもなぜダイナミックであるかといえば、人間は罪を深く自覚している存在だからだ。
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   7・人と人の関係はつねに一方通行である
人の性根は、そうかんたんには変わらない。情けないくらい変わらない。
なぜなら、それほどに誰もが時代(=環境)に深く規定されて存在しているからだ。そうして、人間であることの根源としての「無意識」を抱えている。
誰かに影響されて思想や観念の傾向が変わることはあっても、その人の性根はそうかんたんには変わらない。無意識は、さらに変わらない。
人間が思想や観念だけで作為的に生きてゆけるのなら、影響したりされたりという関係は有効だろう。
それでも性根や無意識は変わらないし、誰も性根や無意識から離れて生きてあることはできない。
誰だってしんどい思いをして「生きられない生」を生きてあるのだ。この性根や無意識のかたちは誰も変えられないし、誰も同じだから影響し影響されるという関係とは無縁である。
作為的な観念だけで生きようとしているものだけが、影響し影響されるという権力関係にこだわる。
それでも人の性根や無意識は変わらない。そこのところでは、誰だってしんどいこの命をがんばって生きている。誰だってこの生の根源としての罪を深く自覚し、他者に許しを乞い、他者を許して生きている。
人間性の基礎においては、人は、他者から影響される存在でも影響力を行使する存在でもない。人間性の基礎においては、人と人の関係はつねに一方通行である。
リーダーの影響力によって言葉が生まれてきたのではない。原初の「あー」とか「うー」という単純な唸り声は、誰もが共有している性根や無意識が響き合いながら、歴史の長い時間をかけて「りんご」という言葉になっていったのだ。
作為的な観念だけで生きようとしているものほど、他者との関係を「影響力(=権力)」として考えたがる。正義という影響力(=権力)。それはもう、内田樹先生や上野千鶴子氏を見ていればよくわかるだろう。そうやって観念だけで生きてきたものは、最後にみずからの性根や無意識に裏切られる。
どんなに気取ってみせても、すでにその顔つきに裏切られている。
内田先生が女房子供に逃げられたのも、他者に影響力を行使しようとして失敗した、という現象なのだろうか。
人は、けっきょくのところ無意識や性根で生きているから、そういうレベルで心が響き合わなければ、ダイナミックな連携や結束は生まれない。
リーダーの影響力で時代の動向が決定されるのではない。
人の無意識や性根は、けっして影響されない。しかし、共有され響き合う。けっして影響されない一方通行の関係だから、共有され響き合ってゆくのだ。
人と人は、「影響力(=権力)」によって連携し結束してゆくのではない。誰もが「生きられない生」を生きているという無意識や性根としての「嘆き」が共有され響き合って連携し結束してゆくのだ。
人間はみんな「生きられない生」をがんばって生きている。影響力という正義なんか、どうでもいい。
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しばらくのあいだ、本の宣伝広告をさせていただきます。見苦しいかと思うけど、どうかご容赦を。
【 なぜギャルはすぐに「かわいい」というのか 】 山本博通 
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わかりやすいタイトルだけど、いちおう現在の若者論であり、日本人論として書きました。
社会学的なデータを集めて分析した評論とかコラムというわけではありません。
自分なりの思考の軌跡をつづった、いわば感想文です。
よかったら。

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