「ケアの社会学」を読む・41・正義の不可能性

   1・原発廃止は正義か?
たとえば、「原発はよくないから廃止せよ」と、自分たちが正義のような顔をして合唱しても、それはもうファシズムと一緒だから、みんながついてくるとはかぎらないし、みんながついてくる社会になったら、それはそれで怖い。
正義のような顔をして相手を裁くことは、いわば思考の怠惰であり思考停止である。
人間の世の中では、人を殺すことが悪にもなれば、正義にもなる。原発を存続することが悪にもなれば、正義にもなる。おたがいが正義を主張し合っていても、きりがない。
原発を廃止せよという議論は、原発を存続せよという議論と同じくらいあいまいだし、怖い。
正義であれば何をしてもいいのかと聞いて、そうだ、と答えられたら、そりゃあもうぞっとする。
正義を手にしているつもりの人は、何をしてもいいという気分になってしまうのである。
われわれは、廃止せよということも、存続せよということもいえない。
いいとか悪いという前に、どうしてこの世に原発が存在するのだろう、という問題がある。
人類史の「なりゆき」として、この世に原発が存在するという事実は、そんなにかんたんなことじゃないだろう。それなりにこの「事実」は重いだろう。
将来、原発はもう怖くてつくれない、という世の中が来るかもしれないが、つくったらいけない、といっても、つくれるのならつくるのである。つくってもいい、という正義も人間はつくることができるのである。
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   2・重度の障害児の子宮を摘出することは正義か?
人間は「子宮を摘出する」という手術をする。
子宮が癌になれば摘出した方がいいだろう。
重度の障害を持って生まれた子供は、生涯にわたって介護を受けなければならない。であれば、まわりが介護しやすいように、本人が介護を受けやすいように、子供のうちに子宮を摘出しておいた方がよい、という倫理思想がある。
アメリカではいま、この手術を合法化してもいいか悪いか、という議論があるらしい。いかにもアメリカらしい合理主義で、してもいいということになれば、誰もが平気でするようになるのかもしれない。
そして、ここからはじまって、すべての身体障害者や犯罪者や精神異常者の子宮を摘出してもいい(あるいは摘出するべきだ)ということになってゆくのかもしれない。
しかし、どこからが身体障害なのか、どこからが犯罪なのか、どこからが精神異常なのか……そんな境界線などないだろう。広義に解釈すれば、人間なんかみんな身体障害者であり、みんな犯罪者であり、みんな精神異常者だろう。
この世に、子宮を摘出しちゃいけない女なんかひとりもいないのだ。
この世に、子供を産んでいい女などひとりもいないのだ。
同時に、子宮を摘出してもいい女も、子供を産んではいけない女も、ひとりもいない。
そんなことは、「いいか悪いか」では判断できない。
この世には、重度の障害児に子宮があってもいいと思う親や医者や介護士もいれば、あってはいけないと思う親や医者や介護士もいる。そのことのいい悪いなんかいえない。
すべては、そのときその場の「なりゆき」で決めてゆくしかない。
重度の障害児の子宮を摘出しちゃいけない、といった時点で、すでに摘出する人間と同じ(正義の)立場に立っている。向こうだって、摘出することが正義だと信じてやっているのだ。
むかしの人は「理屈(=正義)と膏薬はなんにでもくっつく」といったが、まったくその通りだ。
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   3・罪を自覚することと、許すということ
人間は、生まれてきてしまったことを嘆いている存在なのである。だから、子供を産んでもいい、という理屈なんか成り立たない。同時に、すでにこの世に生きて存在している人間に、子供を産んだらいけない、といえる資格なんかない。子供を産んだらいけないという理屈を成り立たせるためには、自分がこの世から消えている存在にならなければならない。
自分がこの世に生きて存在していることを受け入れるなら、子供を産んだらいけないとはいえない。
子供を生むことは罪深いことであるが、その罪を許すというかたちで人間が存在している。
人間は、罪を自覚する存在であると同時に、罪を許す存在でもある。
人間は原発を持ってしまった罪を深く自覚していると同時に、原発を持ってしまった罪を許している存在でもある。
人間は、障害児の子宮摘出の罪を自覚する存在であると同時に、障害児の子宮摘出の罪を許す存在でもある。
人間は、罪を自覚する存在であると同時に、罪を許す存在でもある。
この世に許されていることを自覚できる人間などひとりもいないし、だからこそ人間は、他者を許して存在している。
深く罪を自覚せよ。そして、他者の罪を許せ……われわれは、そんなかたちで存在させられている。われわれは、罪を自覚せずにいられない存在であると同時に、他者を許してしまっている存在でもある。
「許す」ということは、罪を自覚するところでしか成り立たない。
だから、犯罪の裁判では、罪を自覚しているかどうかということがいつも問われる。
人間は、自分を許すことはできない。他者を許すことができるだけである。罪を深く自覚しているものだけが、他者を許すことができる。
誰もが許されている社会とは、誰もが罪を自覚している社会である。
原発存続は正義だ、などといってはいけない。
原発廃止は正義だ、などといってはいけない。
障害児の子宮摘出は正義だ、などといってはいけない。
障害児の子宮摘出は悪だ、などといってはいけない。
原発存続の罪は自覚されねばならない。自覚されたところで、それは許されている。
障害児の子宮摘出の罪は自覚されねばならない。自覚されたところで、それは許されている。
現実問題として、どうしても原発をつくらねばならない状況や、どうしても障害児の子宮摘出をしなければならない状況というのはあるにちがいない。その罪は、自覚されねばならない。そしてその罪は、許されねばならない。
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   4・許しを乞うということ
この世に、罪の自覚なしに「許す=赦す」という行為など存在しない。
人間が他者を許す存在であるということは、罪を自覚している存在であるということでもある。
この世に、正義などというものは存在しない。すべての人間が深く罪を自覚し、許しを乞うている。
あえて正義というなら、他者を「許す」ことが正義なのであって、「許さない」ことではない。
われわれは、正義の側に立つことの不可能性を負って存在している。
われわれは、「許しを乞う」存在であって、「許されている」存在ではない。
われわれは、死ぬまで許しを乞い続ける存在である。死ぬことによって、はじめて罪の自覚から解放される。と同時にそれは、人々が、自分を許してくれる存在をひとり失うことでもある。だから、人の死は悲しい。
人は、許しを乞うようにして、他者の介護をする。そして、許しを乞うようにして介護を受けている。
人間は二本の足で立ち上がって他者と向き合っている。それは、胸・腹・性器等の急所=弱みを相手の前にさらしている姿勢である。つまり、そうやって「許しを乞うている」のだ。
裸で向き合っているかぎり、それは、生き物として、たがいにとても危険な状態である。原初のその状態から、衣装を着たり武器を持ったりするようになったことによって人間は、その「許しを乞う」という意識を薄くし、相手を「裁く」とか「値踏みする」という気持ちをふくらませてきたのだろうか。
しかし、衣装を着たり武器を持ったりお金や社会的地位を持ったりしても、「二本の足で立って向き合っている」という原則がなくなったわけではない。いぜんとしてわれわれは、原則的無意識的には「弱みをさらして(=罪を悔いて)許しを乞い合っている」という関係の中に置かれているわけで、そこから恋や友情や介護の関係が生まれてくるのではないだろうか。
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   5・生きてあるのはいたたまれないことだ
他者に許しを乞う……という気持ちは、誰の中にもあるにちがいない。まあ僕なんか、そういう気持ちなしに生きてくることはできなかったし、死ぬまできっとそうだろう。
セックスは女にやらせてもらうことだ、といつも思っていた。たとえ女房や恋人が相手でも、自分にはセックスをする権利がある、と思ったことなど一度もない。まあ、たいていの男の本音が、そんなところにあるのではないだろうか。
セックスをすることは、「許しを乞う」行為なのだ。もっとも深く許しを乞うてゆく行為のひとつなのだ。
人類が、猿の生態から逸脱して一年中発情している生き物になったのは、一年中許しを乞うている存在になったからであり、セックスをすることが「許しを乞う」という位相の行為に変わっていったからかもしれない。
「許しを乞う」ことは、人間の行為の根源のかたちである。そのようなかたちで、人間的な生態が生まれてきた。
ただ人間は、他者を許す存在でありながら、「許されている」という自覚を持つこともけっしてできない存在である。だから、つねに許しを乞うていなければならない。
許されている存在になったら、もう許しを乞う必要はない。たぶん、そうやって心因性の仮性インポになるのだ。
人間のペニスは、「許しを乞う」というかたちで勃起している。原初の人類は、発情期に関係なく、異性と向き合うと勝手にペニスが勃起してしまう生き物になっていった。
セックスがしたいからペニスが勃起するのではない。そういう衝動が先にあったのではない。セックスがしたいのにペニスが勃起しない人間はいくらでもいる。セックスがしたいからではなく、生きてあることのいたたまれなさを抱えているから勃起するのだ。
原初の人類は、セックスがしたくて勃起するようになっていったのではなく、いつでも勃起してしまう存在になったから、一年中セックスをするようになっていったのだ。
それほどに生きてあることのいたたまれなさを覚えるようになっていったからだ。
二本の足で立ち上がった原初の人類は、猿よりも弱い猿として、つねに外敵や環境から身を潜めるようにして生きてきた。そのようにじっとして身を潜めていれば、いたたまれなさが募ってくる。そうやって原初の人類は一年中ペニスが勃起する存在になっていったし、現在の引きこもりの若者がDVになって暴れたりしている。
原初の人類は、サバンナのあいだに点在する狭い森に閉じ込められて暮らしていた。その状況から、人間的な文化や文明が生まれてきた。
人間は、人間的な文化や文明を持っていたから二本の足で立ち上がったのではなく、二本の足で立ち上がったからやがて人間的な文化や文明を生み出すようになっていったのだ。最初から人間だったのではない。
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   6・なぜむやみに勃起してしまうのか
二本の足で立ち上がった原初の人類のメスは、もう猿のようなあからさまな発情のしるしを見せなくなり、性器は股間に隠されてしまった。それはつまり、オスは、メスから発情を誘発される存在ではなくなったということであり、発情する契機を失ったのだ。
それでもオスは、メスと向き合って立つと、ペニスが勃起していった。原初の人類は、年中発情している存在になったのでない。発情していなくてもペニスが勃起する存在になったのだ。
勃起することは実存の不安から起きてくるのであって、発情するからではない。科学的にはたぶん、生き物の「発情」とか「欲情」などという生理的な現象は存在しない。それはあくまで、文学的観念的な現象なのだ。
生物学的にはたぶん、たとえば春になったら植物の芽がふいて花が咲きはじめるのと同じような現象なのだろう。それは、そういう身体の異変に対する反応であり、身体の異変は生き物に根源的な不安をもたらす。そういう「命の危機」の自覚=反応として、生殖行動が起きてくるのではないだろうか。
原初の人類のメスと向き合って立ったオスは、自分がペニスという余分なものを持った存在であることを意識させられた。つまり、急所=弱みをひとつ多く持っている存在だと意識させられた。そうして、その居心地の悪さからペニスが勃起し、、許しを乞わずにいられなくなった。
オスにとってペニスを外にさらしていることは、命の危機なのである。その居心地の悪さから生まれてくる「緊張=胸騒ぎ=危機感」が、ペニスを勃起させた。そして勃起したペニスは、メスの膣に収納されることによって、危機から解放される。そこにペニスを埋め込んでゆくことは、ペニスを消してしまおうとする衝動である。そういうかたちでしか勃起したペニスは消せない。その勃起したペニスが自分の体から離れて膣の一部になってゆくような感触がある。そこから「ペニスが魔女の膣に食いちぎられる」という民話が世界中で生まれてきたのだろう。人間の男は、普遍的にそういう不安をどこかしらに抱いている。
ペニスを外にさらしながら二本の足で立っている人間の男は、ペニスを消してしまいたいという衝動とともに、膣の中にそれを埋め込んでゆく。
男は、みずからペニスを「罪」として自覚している。そして女は、存在そのものにおいて、すでに深くみずからの罪を自覚している。だから、自傷行為として子を産み育てるということをする。
勃起不全だけでなく、罪を自覚することに対する拒否反応が現代社会の病理になっている。つまり、正義の側に立ちたがる。人と人の関係が、そうやって相手を値踏みしたり裁いたりすることばかりになってしまったら、恋も友情も勃起することもうまくゆくはずがない。
許しを乞うこと、許すこと、それが人と人の普遍的な関係ではないだろうか。
勃起したペニスは、許しを乞うて膣の中に入ってゆく。それはもう、現代人の男だって同じではないだろうか。
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   7・人と人の関係は一方通行である
人間は、罪の意識を負って存在している。そしてそれは、べつに悪いことをしたとかそういうことではなく、二本の足で立っている居心地の悪さのことだ。
したがって、二本の足で立っているかぎり、決して許された存在にはなれない。二本の足で立っていることの罪、というのがある。
生きてあることの居心地の悪さ(=罪の自覚)は、けっして消えない。われわれは、けっして許された存在にはなれない。
人と人の関係は、一方通行である。人は他者を許す存在であるが、他者から許されているという自覚はけっして持つことができない。
他者を許すとは、他者に許しを乞う、ということだ。たがいに許し合いながら、どちらもついに「許されている」という自覚を持つことができない。
だから西洋人は、「神」という概念をつくって「神に許されている」という安心立命を得ようとしたのだろうか。つまり、「神に許されている」と思うこと自体が、「許されていない」という自覚で生きている証拠だ。
それでも人と人は、たがいに「許しを乞う」というかたちで関係している。
生きることは、許しを乞い続けることだ。許しを得る、ことではない。許しを得ることの不可能性を生きることだ。それは、人間が他者を許さない存在だからではなく、関係はつねに一方通行である、ということだからだ。
人間は、すでに他者を許してしまっている。なぜなら、自分自身が罪を自覚し許しを乞うて生きているからだ。相手を許さなければ、「許しを乞う」という態度はとれない。
神の立場で許しているのではない。「許しを乞う」というかたちで許しているのだ。
人と人は、たがいに許し合っているのに、たがいに「許されている」という自覚を持つことができない。
こういうのを、不条理、というのだろうか。人間は他者を承認している存在であるが、誰も「他者に承認されてある」という自覚を持つことができない。
何度でもいう。人と人の関係は、つねに一方通行である。
「共生」という言葉は、うさんくさい。僕には「寄生」という言葉の方がしっくりくる。人と人の関係の基本は、たがいに寄生し合うことにある。
勃起したペニスは、ヴァギナの中に寄生してゆく。
「許しを乞う」とは、「寄生」してゆくことである。
人間存在の根源の問題として、たぶん「寄生」という関係の位相があるのだ。
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