自然としての集団性・ネアンデルタール人と日本人・25


原始人は狩りとかアニミズムとかの集団運営のためのモニュメントとして洞窟壁画を描いたのではない。
人類がそういう目的で壁画を制作するようになったのは氷河期明け以降のことだ。
原始人の集団運営は自然状態において先験的になされていることであって、目的化することではなかった。
ネアンデルタールクロマニヨン人は、明日も生きてあることを勘定に入れるような生き方はしていなかったし、氷河期の冬のヨーロッパはそれができるような環境ではなかった。
したがって、集団運営のためのどんな計画も持たなかったし、それでもみんなが寄り集まって暮らしてゆくというかたちが自然にできていた。
人間の先験的な集団性とはどのようなものか。それによって氷河期の北ヨーロッパネアンデルタール人が出現したのだ。
人類史における「集団運営のための計画」などという思考は、氷河期明けの共同体(国家)の発生とともに生まれてきたのだ。そのときそれを目的化しないといけないほど集団の規模が大きくなっていたし、異民族との争いを制するためには、その結束しにくい集団を結束させてゆく必要があった。
まあ、アニミズムも、その不自然から生まれてきた。アニミズム=宗教とは、集団運営のためにデマゴーグを共有してゆくことだ。神とかお化けとか霊魂とか、そういうイメージ(概念)によって人の心の存在の不安に食い込んでゆく説得術であり、戦争ばかりしていていた四大文明の地では、そういうデマゴーグに説得されやすい心になっていた。
現代の市民運動も、ひとつのアニミズム=宗教なのだろう。現代社会は人間が抱えている生の不安が増殖してしまっているという状況があり、それを煽って集団の結束を形成してゆくというのは、ひとまず伝統的なアニミズム=宗教の手法と通底している。
この生の不安やいたたまれなさをフェードアウトさせてゆくという作法を失ってしまえばもう、そんな対症療法的な運動を永久に繰り返してゆくしかないのだろう。
人類社会おける集団運営を目的化するという生態は、氷河期明けの文明社会とともに生まれてきたのであって、原始人の生態ではなかった。
原始人の集団運営は先験的にそなわった人間の自然だったのであって、目的化するものではなかった。
人と人が出会ってときめき合えば、自然に集団は生まれてくる。それが原始人の集団だったのであって、何かのスローガンや法制度を共有して作為的につくってゆく文明社会の集団のかたちとは違う。



猿の集団は、リーダーがいてみんながそれに従うというかたちになっているように見える。
では、原初の人類もそのようにして集団を運営していたのか。
それは、わからない。一度疑ってみてもいいのではないだろうか。
原初の人類が二本の足で立ち上がることは、猿よりももっと弱い猿になることであり、猿の生態と決別することだった。
弱い猿になってしまったら、力比べをして順位争いをすることができない。順位争いをするつもりなら、弱い猿になんかならない。誰もが戦闘に有利な四足歩行の姿勢を維持しようとするだろう。
そうしてボスは、順位争いの上に決定される。順位争いをした結果だから、みんなはボスに従う。
順位争いがなくなるということは、ボスという存在もいなくなるということだ。
原初の人類が二本の足で立ち上がったということは、順位争いをしてきた猿が順位争いをしなくなったということを意味する。順位争いができない体(姿勢)になってしまったのだ。
渡り鳥の編隊飛行やイワシの群れの先頭がリーダーというわけではないだろう。先頭はもっとも強く風圧や水圧を受けるから、先頭でい続けることはできない。移動のあいだに、先頭は絶えず入れ替わってゆく。
生まれてから死ぬまで泳ぎ続けているイワシやマグロの群れにリーダーなんかいない。
渡り鳥だって、どこに飛んでゆくかは、リーダーが決めてリーダーだけが知っているというわけでもなく、みんながすでに知っている。
しかも彼らは、猿や原始人の集団よりもはるかに大きな規模の集団をいとなんでいる。
たぶん原初の人類は、猿の集団運営と決別して、そういうより自然なレベルの集団運営に遡行していったのだ。猿のような作為的な集団運営ではなく、もっと自然な「なりゆき」のままに運営されてゆく集団になっていったのだろう。
だから、猿よりも大きな規模の集団を運営することができるようになった。
リーダーがいてきっちり法制度を機能させることがもっとも高度な集団運営のかたちだとはいえない。むしろ、その不自然さにこそ限界がある。
人類の集団運営の基礎的なかたちは、猿の群れのようにリーダーによって統率されるというかたちで成り立っているのではない。まずそれぞれの人と人の関係があり、その総体の「なりゆき」によって集団が動いてゆく。現代社会の動きだってじつは同じであり、時代は「なりゆきで動いてゆく。それが、人類の歴史なのだ。
歴史をつくろうとすることなんか、無駄なことだ。人間のいとなみの総体の「なりゆき」として動いてゆくだけだ。



人類史の行き先なんか、誰が決定できるものではない。まあ、「こうしなければならない」だの「ああしなければならない」だのと騒ぎ合っている世の中だが、そういったからといって実際にどうなるかは誰にもわからない。
たとえば、この地球上には、原発をなくそうとする先進国の動きと、どんどん原発をつくって経済を発展させようとする新興国の動きとがある。そして、新興国のその動きは、原発なんかなくてもそこそこやってゆける先進国にならないと止まらない。地球がすっかり放射能汚染されてしまう未来と、原発がないきれいな地球が実現する日と、いったいどちらが先だろうか。これはもう、先進国の思惑だけで決められることではない。先進国の一部の市民の放射能恐怖症が世界中を覆い尽くすことはできない。彼らは認めたくないだろうが、人間は放射能とともに生きようとする「狂気」も持っている。
みんなが死ぬのを怖がっているとはかぎらない。死んでもかまわないと思っている人間も、死にたいと思っている人間もたくさんいるし、じっさい人間なら誰の中にもそういう死に魅入られる心が潜んでいる。
人間は、困った状況で四苦八苦しながらやりくりしてゆくのが嫌いではない。だから住みにくさをいとわず地球の隅々まで拡散していったのだし、命はそこでこそ豊にはたらく。
人間が何がなんでも住みよい快適な環境を願う存在であるのなら、人類拡散は起きなかった。
まあリーダーはそういう環境を保証する存在として登場してくるわけで、とすればリーダーのいない歴史を歩んできたから、そのような行き当たりばったりの生態になっていったのだろう。
リーダーがいないということは、未来が決定されていないということである。つまり原始人は、人類学者がいうような「計画性」で集団をいとなんでいたのではないということだ。
住みにくい土地に移住してゆくことを計画したのではない。計画しなかったから移住していったのであり、人間は、住みにくい土地に住んで四苦八苦しながら暮らしてゆくことにいつの間にかなじんでいってしまうメンタリティを持っている。
彼らは、住みにくいところだったからもとのところに戻る、というようなことはしなかった。その住みにくさをやりくりして住み着いてゆくことの醍醐味があった。そしてそのやりくりしてゆくところに人間の集団性があった。
現代社会は、明日も生きてあることを勘定に入れながら未来の計画をつくることによって動いているが、それでも、誰の中にも明日が「未知」であることの醍醐味を感じる心がはたらいている。学校に行くことを忘れて青い空を眺めていたり犬と遊んでいたりするような子供の心は、誰にだってあるだろう。天国があることをしんそこ信じている人だって、さっさと死んで天国に行こうとはしないだろう。
まあ生きるいとなみの基本は、明日のことなど忘れて「今ここ」に魅入られてしまうことの上に成り立っているのだろう。
「今ここ」に魅入られる体験がなくて、どうして人が生きていられよう。原始人の集団性は、そういう体験の上に自然に成り立っていただけだ。
原始人は、集団をつくろうとしたのではない。気がついたらすでに集団の中に置かれていたのだ。


原初の人類は、リーダーがいてみんながそれに従ってゆくというような集団運営をしなかった。それは、集団運営という目的なんか持たなかった、ということと同義なのだ。
そういう計画性を持っていたら、住みにくい土地に移住してゆくということはしない。
原始社会はリーダーのいない集団だった。
リーダーの命令がないのなら、ひとりひとりがそれなりに連携してゆく。人間の集団は、連携しようとする本能の上に成り立っているのであって、集団をつくろうとすることによるのではない。べつに集団をつくろうとする意欲も壊そうという意図もない。集団の中に置かれていることは人間であることの前提である。
人間は、集団の中に置かれてしまうような生態を持っている。
イワシやマグロが泳ぎ続ける生態を成り立たせるためには、水圧の少ない群れの後ろで泳ぐということがなければならないし、誰かが先頭に立って水圧を受け止めとるということもしないといけない。みんながそれを交代にしないといけないし、みんなが楽に泳いで休憩するという体験もできないといけない。楽をし続けるものもいなければ、苦労し続けるものもいない。リーダーがいなければ、「おたがいさま」でそういう関係になってゆく。
誰がえらいわけでも誰が邪魔であるわけでもない。
「おたがいさま」という関係は、リーダーのいない集団ではぐくまれる。人類は、二本の足で立った瞬間から「おたがいさま」の関係になった。基本的にそれは、おたがいに他者と向き合って立っていなければ安定しない姿勢であり、そういう関係性の上に人間の集団性が育ってきたのだ。
それに対して、リーダーがいる現代社会では、良ければリーダーのおかげだし、悪ければリーダーのせいだと思うような傾向になってしまっている。誰もが未来のスケジュールを立てたがっており、それをリーダーに託している。
リーダーという未来、しかし明日も生きてあることを勘定に入れなかった原始社会の集団性は、リーダーが生まれてくるようなかたちではなかった。
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