内田樹という迷惑・抱きしめる

「メシア(救世主)」をやまとことばとして解釈すれば「劇的に出現する孤独な人」ということになる、といったら、じゃあ「飯(めし)屋」は「メシア」か、といわれた。
しかし、その通りなのです。あの硬くてごつごつした米粒が、ふたを開けた瞬間、ふっくらとやわらかい飯に変わっている。その「出現」に対する感動が、「めし」という言葉になった。まさしく「めし」は「メシア」なのだ。
そういう感動が、やまとことばの「言霊(ことだま)」として息づいている。それは、言葉の「霊=神」なのだ。
やまとことばには、世界が出現(生起)することに対する感動がこめられている。たぶん、神を見出す体験とはそういうものであり、「抱きしめる」という行為だって、世界=他者が出現するひとつの神体験だろうと思う。
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「私」は、「あなた」を抱きしめたいと願う。
しかし、抱きしめても、抱きしめることができない。
そのとき「私」の身体は消えて、「あなた」の身体ばかりを感じている。抱きしめているはずの「私」の身体は、もはや存在しない。「あなた」の身体が存在するばかりだ。
私たちは、一体化していない。つながってなどいない。
「私」は、「あなた」を抱きしめることができない。抱きしめたと思った瞬間、私の身体は消えている。
「私」は、「あなた」のよろこび(かなしみ)を、自分のよろこび(かなしみ)とする。そのとき、自分のよろこび(かなしみ)というものはない。「あなたのよろこび(かなしみ)」が存在するだけである。
もらい泣きをする。それは「私のかなしみ」ではない。あくまで「あなたのかなしみ」だ。ここにはもう「あなたのかなしみ」しか存在しない。
「私」は、あなたを抱きしめることができない。永遠に「抱きしめたい」と願い続ける……それが、人と人の関係の基本的なかたちだと思う。
つながることの不可能性を前にして、つながりたいと願い続けること。それが、人と人の関係性だと思う。
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自分の身体に対する意識が消えて、他者や世界の存在の絶対性が浮かび上がる。そういう体験から、神や仏というものがイメージされていったのではないだろうか。
意識は、他者や世界が「神」として立ち現れる体験をする。それが、他者を抱きしめるという行為ではないだろうか。それが、感動するという体験ではないだろうか。
われわれ人間が「神」を見出してしまったのは、みずからの卑小性や身体の消滅に気づいたからだ。そこからしか神の尊厳や絶対性に対する憧れは生まれてこない。あらかじめの尊厳や絶対性に対する憧れなどというものはない。
それは「……ではない」というかたちで意識される。
そうしてみずからの卑小性や身体の消滅もまた、神の尊厳や絶対性への憧れとともに打ち消されてゆく。
「私の身体の消滅」が打ち消されるとき、「あなたの身体とのつながり」が意識される。そうして「あなたの身体とのつながり」は、「無限性」へと延長されてゆく。人間が、無限性、すなわち天国や浄土を意識するようになった根源は、「他者とのつながり」という制度性=ルールがつくられていったことにあるのではないだろうか。
みずからの身体の消滅を打ち消して「あなた」とつながり一体化してゆくという制度性=ルールは、どこでつくられたのか。
「われわれは神の子である」というあのユダヤの律法は、「私の身体の消滅」を打ち消す制度性=ルールとして機能している。神の子の身体は消滅しない、という制度性=ルール。神の子の身体は、「あなたの身体」とつながり一体化する。
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人間の観念は、事物にアナログな連続性を持たせようとするはたらきがある。そこから、文明が始まった。
文明とは、他者の身体との連続性を見出してゆくこと、すなわち「説得する」ための制度性=ルールにほかならない。
「説得する」ことが文明なのだ。
たとえば、原初の人類が、この石は草食動物の死体の骨を砕く道具になるかもしれない、と発想することは、ひとつの「説得」しようとする」観念行為である。
しかしそこで、骨を砕く石に対する意識は「説得した」という充足を得ているが、砕けてゆく骨そのもののようすに心を奪われているとき、石のことは忘れ、「説得」に失敗している。
このとき、石は「私」である。骨は「他者=世界」である。
人は、「他者=世界」の絶対性に心を奪われているとき、「説得」に失敗している。そうして、永遠に説得したいと願い続ける。
たぶん、このときそういう体験もしているはずである。だって、そのときの骨の砕け方は、今まで見たこともないくらい鮮やかなのだから。
つまり、もっとも鮮やかな体験(感動)は、「説得」することの不可能性としてもたらされるということも、そのとき人類は知ったのだ。
そうして、文明の向こうがわに、学問や芸術が生まれてきた。すなわち、「文明=説得する私」の向こうがわに「神=説得不能の他者」が見出されていった。
この問題は、ややこしい。
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人間は、「神」を見出してしまった。しかしそれは、人間には宗教が必要だということを意味しない。われわれは、宗教を生きているのではない。だが、誰もが宗教が生まれる「契機」を生きている。
「私」は、世界の中に存在することができない。ただもう「私」の外に世界が存在することの不思議と確かさと鮮やかさに驚き震えているだけだ。
たしかに人間は、他者や世界とつながりあいたいと願う生き物である。
しかしそれは、つながりあうことが不可能だからだ。つながりあっていると思った瞬間、つながりあいたいという願いは消え失せている。それは、飯を食っているときに飯を食いたいという願いは消え失せているのと同じことだ。
人と人はつながりあっていると「説得」しにかかるあなた、あなたの中につながりあいたいという願いはすでにない。
「私」は、抱きしめあうことによって「あなた」と一体化する(つながりあう)ことはできない。まさにそのことによって、はじめてより深く「私はあなたではない」「あなたは私ではない」ということに気づかされる。