内田樹という迷惑・無意識の問題

仏教では、無意識のことを「末那(まな)識」というのだそうです。
人間が「まな」と発声する感慨に、インド人も中国人も日本人も、もしかしたらそう違いはないかもしれない。違うかもしれないけど、どこかに共通する感慨があるかもしれない。
インドの古いタミール語は、やまとことばと同じような言葉がいくらでもあるらしい。それは、やまとことばがそこから伝わったというのではなく(伝わったといっているばかな言語学者もいるけど)、同じような感慨があれば同じような音声が発せられる、ということではないだろうか。
以前僕は「メシア」という言葉を、やまとことばの音韻と感慨の関係に当てはめて類推していったことがあります。そうするとそれは、「劇的に出現する孤独な人」ということになりました。
やまとことばで「まな」とは、「裂け目」のことです。
「ま」は「間(ま)」。
「な」は「汝(な)」の「な」。向こうがわにある対象を探索する感慨。
「まな」とは、「裂け目」、あるいは「裂け目の向こうがわ」
「まなこ=目」とは、顔にある「裂け目」のこと。
女性器のことを「まんこ」というが、もともとは「まなこ」だったのでしょう。
「学(まな)ぶ」ことは、孤独な行為です。相手から教えられたことが、そのまま全部伝わるわけではないし、教えられたこととは違う受け取り方をすることもある。とにかく「学ぶ」ことの成果は、伝えられた表面的な情報にあるのではなく、自分自身が納得したことの中にある。
「学ぶ」ことはコミュニケーションではない。コミュニケーションはただ情報を伝えるだけだが、学ぶことは、伝えられたことではなく、あくまで自分自身の「納得」の問題なのだ。
それは、コミュニケーションではない。相手とのあいだにある「裂け目」で生成している。
対象とのあいだの「裂け目」で意識が生成している行為を、「まなぶ」という。
知識は、伝えられたことがすべてではない。そんなコミュニケーションくらい、誰でもできる。それ以外の、みずから学んだ知識がある。つまり、伝えられた知識=情報の「裂け目」から入ってくる知識を吸収することを、「まなぶ」という。
それは、「無意識」のはたらきとかかわっている。たんなるコミュニケーションは「意識」においてなされるが、学ぶことは、その向こうがわの「無意識」のはたらきが加わらなければ成立しない。そういうことを、古代人は、たぶんちゃんと知っていたのだと思う。
古代人は、「コミュニケーションの不可能性」という人間存在の根源的なかたちを、すでに知っていた。
古代人は、無意識のはたらきを、すでに知っていた。そしてそれは、意識の「裂け目」の向こうがわで生成している、と思っていた。
「神」も、この世界の裂け目の向こうがわに存在している。空の向こうの「無限」のかなたではない。空の「裂け目」に存在しているのだ。
古代人は、この世界の「裂け目」に神を見出していった。
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「裂(さ)ける=裂(さ)く」という言葉は、とても古い言葉です。
おそらく、縄文時代からあった。
「さ」がつく言葉の基本は、すべて「裂(さ)く」にある。
「さ」という音韻は、息とともに声が裂けるような心地で発声される。
「咲(さ)く」は、つぼみが裂けること。
「策(さく)」は、新しく裂けて出てきたもうひとつのアイデア
「柵(さく)」は、内と外を裂く境界。
「笹(ささ)」は、一枚の葉っぱがいくつにも裂けているように見えるもの。
「去(さ)る」は、関係が裂けて離れてゆくこと。
「里(さと)」は、もうひとつの別の場所のこと。
「猿(さる)」は、人間から引き裂かれた動物。人間から置き去りにされた動物。
「早い=早(さ)く」という現象は、空間を切り裂くようにして起きている。
「朝(あさ)」は、夜と昼間の裂け目が現れる時間帯のことをいう。そういう現象に気づく感慨から「あさ」という言葉が生まれてきた。「あ」は、気づく感慨。
すなわち、はじめに「裂(さ)く」という言葉があった。
したがってそれは、ほとんど言語の歴史とともにあった言葉で、この世界の「裂け目」を見てしまったことが人間の始まりである、といえるのかもしれない。
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「契機」と書いて、「さけめ」と読む……?
「気づく」とは、裂け目の向こうがわを見ること。
学ぶことも、気づくことだ。教えられる、ことではない。
「あなた」と「私」のあいだの「裂け目」に気づくこと。それが学ぶことの契機であって、「つながり」を意識することではない。そのようなコミュニケーションの関係では、たんなる情報を収集することでしかない。なんにも学んでなんかいない。
信仰なんかしても、神に関する情報を収集することはできても、「神」に気づくことはできない。信仰の自己否定……信仰とは、信仰を生きることではなく、信仰の契機を生きることだ。
だから、古代から「原典」が大事に引き継がれてきたのだろう。
救済されることではなく、救済されたいと願い続けること。永遠に願い続けること。なぜなら、願い続けるものにしか「神」に気づく契機はないのだから。「神」は、決して救済しない。それは、「あなた」とともにあるために、である。
救済されないことそれ自体をアイデンティティとして生きるのが、人間のかたちなのだろう。そこに、生きてあることの醍醐味がある。「ときめき」も「感動」も「学ぶ」ことも、そこにおいて生起する。
人間は、救済されない生き物だからこそ、「裂け目」に気づき、「神」を見出してしまったのだろう。
この世界に対する違和感や疎外感が、「裂け目」に気づかせてしまったのだろう。
「私」という人間存在は、世界の外側に置かれてある。この「絶望」を生きることが、たぶん「神」に気づく契機になる。
しかしそれは、意識するべきことではなく、無意識の問題だろうと思う。