内田樹という迷惑・仏教

最近見つけた「M」氏と「H」氏のブログが、気になっています。
彼らは、仏教の原典と格闘し、「現在」という歴史と格闘している。
彼らは、「ああ、人間とはこんな生き物だったのか」と気づく体験として、仏教の原典や「現在」と格闘している。
学問とは、ほんらいそういう行為であろうと思える。
学者とか坊主は、人間なんか知っているつもりでいる。だから、彼らが説く人間は、いつだってステレオタイプだ。
彼らの学問や仏教に対する関心は、学者である、仏教徒である、という自覚を確かめようとする衝動の上に成り立っている。彼らに、人間とは何か、と問おうとする心の動きなどない。そんなことはすでに知っているつもりでいる。
世の中には、そんな学者や坊主がうようよいる。
まず、「生き物は生きようとする存在である」ということを当然の前提であるかのように考えている学者や坊主は多い。
そうだろうか。
たとえば、坂道に置いた石ころは、ころころと転がってゆく。では、その石ころは転がることのできるエネルギーを最初から持っている、といえるだろうか。
平たいところに置いておけば、永久に動かない。
エネルギーなんか持っていないじゃないか、といいたくなる。
エネルギーは「存在する」のではなく「生じる」のだ。
坂道を転がる石ころは、だんだんスピードが増してゆく。
最初から早いわけではない。早くなったのは「結果」であって、石ころ自体に早くなるエネルギーがあったのではない。そういう「結果」が「生じた」だけのことだ。
そのスピードは、そこでしか生じない。転がり始めるときには、絶対生じない。
そういう風に転がっていけば、そういうスピードが出るに決まっている。そりゃあ、そうだろう。でも、転がっていかなければ、出ない。
そこでそういう事態が起きることは、たとえ決まっていたとしても、その事態は、この宇宙の歴史でたった一回きりの出来事だ。二度と同じにはならない。毎回、ほんのちょっとずつ違う。
だったらそれはもう、「生じた」というしかないではないか。
どんな機械の動きだって、毎回、ほんのちょっとずつ違う。
この世のすべての事態は、「生じる」のであって、そういう事態が起きる約束があるのではない。
このことを、「M」氏は、「一般事実」といっておられた。そしてそれが「約束された事態」ではなく、この宇宙の歴史でたった一回だけ「生じた」出来事であると認識することを、「一般事実への信頼」という。
「一般意思の駆動」に対する「一般事実への信頼」。「一般意思の駆動」とは、たとえば、生き物は、生へのエネルギー、すなわち未来への約束、すなわち生きようとする本能で生きている、という合意がこの社会にエートスのように充満していること。われわれはその絶望的な制度性を克服できるだろうか。
エネルギーは、「存在する」のか「生じる」のか。
生き物だって、「物体」である。
この世のすべての事態は、<この宇宙の歴史でたった一回だけ「生じた」出来事>なのだ。
生き物は、「生きよう」としているのではない。「生きている」という「結果=出来事」が起き続けているだけなのだ。
生き物は、生きようとする衝動でものを食うのではない。腹が減ったから食うのだ。生きようとする衝動で食うことなんかできない。腹が減ったという「契機」がなければ、どんな生き物も食おうとなんかしない。
生きようとする衝動なんかなくても、腹が減ったという「契機」さえあれば食おうとするのだ。
腹が減ることは、生きてあることの「結果」である。
「生きてあるという結果」に対する信頼、それが生き物を生かしている。それを「一般事実への信頼」という。
生き物は、「生きよう」とする未来に対する意識で生きているのではない、「生きてあるという結果(=事実)に対する信頼」で生きているのだ。
われわれは、未来のどんなことも知らない。
われわれは、人間のことなど何も知らない。
人間とは何かと問う「契機」を生きているだけだ。
「生きる」という行為は、ある「契機」によって「生じる」のであって、「生きようとする約束」があるのではない。
その「契機」に対する信頼が、生き物を生かしている。
仏教とは、この「契機」を説く宗教なのではないかと思わないでもない。
的外れだったら、お二人さんごめんなさい。