内田樹という迷惑・戦後の風景

ほっとけばいいだけなのに、どうしてそんな風にくそまじめに反応してしまうのか、相手の思うつぼじゃないか、と人から言われました。
昨日寄せられた迷惑なコメントのことです。
まったく言われるとおりで、われながらいやになります。せっかく「神」と「遊び」の問題をいいところまで追い詰めてきていたのに。
まず、内田氏の「自尊感情」という言葉がどうしようもなく引っかかってしまい、そして昨日の迷惑コメントの「生へのエネルギー」という言葉が迫ってきました。
どちらも、僕の大嫌いな言葉です。「自尊感情」については少し書いたけど、いいたいことはまだまだあります。
そして「戦後世代の親たちは生へのエネルギーにあふれた人たちであり、戦後はそういう時代だった」というようなくだらないことを言われ、なんだか「やめてくれよ」という気分になってしまいました。
これが一般的な分析ですからね、世の中のたいていの人がそう思っているのでしょうか。
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団塊世代をはじめとする戦後世代の親たちは、決してそんな「生へのエネルギー」にあふれた人たちではなかったし、戦後はそういう時代でもなかった。
僕がなぜ「生へのエネルギー」という言葉が嫌いかというと、人間を生かしているものはそんなものじゃないと思うからです。
人間を生かしているのは、この世界が輝いて見えるという体験であって、生へのエネルギーすなわち食うことなんか二次的な問題に過ぎない。人間とは、そういう存在であると思う。
人間は、自分の命や身体の煩わされることはあっても、命や身体に執着を持っているわけではない。自分の命や身体のことなど忘れて世界が輝いて見えるそのときこそ、生きた心地を味わうのだ、と思う。命や身体への執着は、観念の問題にすぎない。
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団塊世代の親たちは、ほとんどが大正以前の生まれです。そして彼らは、戦争の傷と記憶を引きずって生きていた。
そんな人たちが、無邪気に「生へのエネルギー」をみなぎらせて生きていけると思いますか。戦争が終わったから、さあ何もかも忘れて命を謳歌して生きて行くぞ、という気分になれるでしょうか。
戦争の傷というのは、そんな簡単なものじゃないでしょう。彼らはそれを、一生引きずっていった人たちであるはずです。
「生へのエネルギー」にあふれた人たちなら、戦争が終わってまず、食い物と家を確保することに躍起になることでしょう。
しかし彼らは、まずセックスの相手を求めた。戦争から帰ってきてまず何がしたいかというと、たらふく食うことじゃなく、セックスすることだったのです。そうして、ろくな食い物も家もない環境で、子供までつくって育て始めやがった。
それは、彼らにとっては、食い物よりも「世界が輝いて見える体験」のほうが大事だったからです。
その代わり彼らは、食い物も家も仕事も、決して多くを望まず、営々と働いてきた。そうやって働いたから、戦後の経済復興が果たされたのだ。
戦後世代の親たちは、新しい家などほしがらなかった。だから、1970年以前は昔のままの町並みが多く残っていた。
僕の育った伊勢にも、昔の街道そのまま家並みが多く残っていたが、いまやもうすっかりさま変わりして、普通の平凡な住宅街ばかりになってしまった。
人々が食い物や家に執着し出すのは、70年以降のことです。
そうして80年代に入って戦後世代の親たちは、続々定年退職していった。
現在の新しい町並みは、それ以後の戦争に行かなかった世代によって作られたのです。食い物や家に対する執着の強い彼らこそ、「生へのエネルギー」に満ち溢れたものたちなのでしょう。
では戦後世代の親たちが求めたものは何かというと、娯楽です。歌謡曲、映画、スポーツ、そんなようなものです。彼らは、直接的な生のいとなみよりも、つまり戦争によって受けたみずからの傷を癒すための「娯楽」を求めていった。
プロレスの力道山は、国民的英雄だった。彼が活躍した50年代は、着実に復興が果たされてゆく一方で、犯罪や労働争議などが頻発した暗い時代でもあった。ただ復興が果たされたから「生へのエネルギー」に満ちた時代だったとか、そんな単純なものじゃない。大衆自身にそんなエネルギーがあれば、何も力道山なんかに熱狂はしなかったでしょう。
映画も歌謡曲も、70年くらいまでがもっとも盛んだった。
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戦後の日本映画の巨匠といえば、東宝黒澤明と松竹の小津安二郎でしょう。
小津安二郎は、やがて離れ離れになってゆく家族の悲しみを淡々と撮り続けた監督です。たいしたドラマもなくどちらかというと退屈なその映画が、なぜ大衆に支持されていったのかといえば、それこそがまさに戦後世代の親たちの心象風景と重なるものだったからでしょう。
彼は、「生へのエネルギー」などというものを嫌っていた。たとえば娘を嫁にやる父親のかなしみとか、そのかなしみの向こう側で世界は輝いているということを、円熟した手法で見事に描いて見せたのだ。
60年代の一時期、ヌーベルバーグといって若手監督による「生へのエネルギー」を描くムーブメントが起こるのだが、すぐにぽしゃってしまった。
戦後の映画や歌謡曲の一番のモチーフは、「生きてあることのかなしみ」だった。そういう作品が多くヒットした。
「生へのエネルギーにあふれた時代」などではなかったのです。
傷痍軍人・パンパン(街娼)・浮浪児、これが戦争直後の街の風景だった。ここから戦後が始まった。人々は、食い物や家以上に、何よりも「娯楽」をほしがった。
娯楽をほしがるのは、生へのエネルギーがあふれているからではない。あふれていたら、そんなものほったらかしにして、生産行為に邁進してゆくことができる。
彼らは、娯楽を必要とするようなかなしみやなげきを抱えて生きていた。
美空ひばりの「東京キッド」は、戦争直後の浮浪児の生態を歌ったものだが、その歌詞は、「右のポッケにゃ夢がある、左のポッケにゃチューインガム」というものだった。実態がどうであろうと、そういうものが人間を生かしている、という合意がその当時の世相にあったということです。
彼は、夢とチューインガムで生きていた。
それは、「生へのエネルギー」ではない。「生からの逸脱」なのだ。生きることから逸脱してゆくことが生きることであり、それこそが純粋な生のかたちにほかならない。
戦後の廃墟に立たされた人たちは、深く傷ついた人たちだった。
そして、深く傷ついた人たちは何を必要とするかといえば、「生へのエネルギー」でも「自尊感情」でもなく、「娯楽」すなわち「世界が輝いて見える体験」である、ということです。戦後の人たちは、そういうことをわれわれに語りかけてきているように僕には思える。