内田樹という迷惑・「あそぶ」の語源

「あそぶ」ということばは、すでに古事記の中にも出てくる。
古代人は、どのような気分で「あそぶ」と言ったのだろうか。
「あそぶ」の体言が「あそび」。
「あそ・ぶ」。
「あ」は、「あっ」と気づく、の「あ」。「あなた(向こう)」の「あ」。「注目」・「視界」の語義。
我が子、すなわち「吾子」と書いて「あこ」と読む。この場合はたしかに「我が子」なのだけれど、言葉があらわすところは、「見つめる子」「気にかかる子」、ということになる。
「あそぶ」の「あ」は、「気づく」こと。
「そ」は、「それ」「そこ」「そなた」の「そ」。目の前から離れてあるもの。「反(そ)る」「逸(そ)れる」といえば、通常の状態から逸脱すること。「粗(そ)」「疎(そ)」も、通常から逸脱した状態のこと。「外(そと)」は、戸(と)の向こうの逸脱した空間のこと。
「そ」は、「空間」・「逸脱」・「非日常」の語意。
「逸脱」・「非日常」に気づくことを、「あそぶ」という。べつに楽しいとかおもしろいとか、そんなことは関係ない。古代人は、そんな薄っぺらな発想で「あそぶ」といったのではない。「今ここ」から逸脱してゆく非日常的な行為のことを、「あそぶ」といったのだ。
つらく苦しい「遊び」もあれば、楽しく愉快な「労働」もある。
日常のいとなみはすべて「労働」だし、非日常に逸脱してゆけば「遊び」になる。
生きてあることそれじたいが日常からの逸脱であれば、それは「遊び」にほかならない。
息をすることは、ほおっておけば息苦しくなってくる身体の現実=日常から逸脱してゆく「遊び」の行為なのだ。
生きるいとなみは、たえず「日常=労働」から逸脱していっている。日常から逸脱することが、日常なのだ。
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道具や機械などで、きっちり接続されていないことを「遊びがある」という。つまり、「遊び」が可能な「隙間=空間」がある。やまとことばで「間=(ま)」という。
「遊び」の「そ」は、「ま」でもある。「そ」でありながら充実している空間を「ま」という。「まったり」の「ま」。「そ」にして「ま」なるもの。それを「粗末(そまつ)」という。「つ」は「行きつ戻りつ」の「つ」。だんだんそうなってゆくこと。「そまつ」とは、「そ」にして「ま」になってゆくこと(あるいはもの)。つまり、「空間=関係」が充実してゆくこと。
「そまつなものですが」と差し出す日本的作法を、ただの「卑下」と解釈するべきではない。これは「私」と「あなた」の関係を「そ」にして「ま」なるものにしてゆくものです、という意味だ。すなわち、わしたちの関係をけっして馴れ合いにしないで「そ」にして「ま」なるものにしていきたいと願っています、という誓い(=こころざし)がこめられた言葉である。くっ付いてしまわないでたがいのあいだにほどよい「隙間=空間」があることの充実を保つこと、その「かたしろ(担保)」として、「そまつなものですが」と言いながら贈り物を差し出す。そういう心意気(=こころざし)をこめて、「粗末なものですが」と言う。「卑下」なんかしていない、清く高い「志=こころざし」なのだ。
「粗末(そまつ)な服装(なり)をしている」という。それは、「こころざし」の高さを示す姿でもある。古代の神は、蓑笠をまとった乞食の姿に身をやつして人間の世界にやってくる。それが、神の来訪を語るときの約束事だった。ひとむかし前の「バンカラ」の服装も、いわば神の姿にほかならない。それは、そういうかたちでこころざしの高さを示す伝統的な身振りであり、「そまつ」という言葉にはそういう意味が含まれている。
そういう伝統の上に、現代の若者は、破れたジーンズを身にまとう。
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「遊び」のない道具は、すぐ壊れる。
人と人の関係も、遊びがある関係もあれば、労働そのもののような遊びのない関係もある。
内田氏は、「愛とは<あなたなしでは生きてゆけない>というメッセージを贈ることである」と言っています。これは、遊びのないくっつきすぎた関係です。こんな儒教的な一体感を、愛というのですか。家族は、このようにくっ付きすぎて遊びがなくなったときに壊れてゆく。
「あなた」と「私」のあいだには、体(=心)がぶつかり合わないですむための「空間」がある。体がぶつかり合うことは、心がぶつかり合うことです。
この「空間」を「あなた」と「私」のあいだにつくることが、直立二足歩行のコンセプトです。
原初の人類は、密集しすぎた群れにおいて、たがいの身体のあいだに「空間」をつくるため(維持するため)に直立二足歩行をはじめた。誰もが四本足で這って歩いていると、どうしても場所を取ってしまう。
「あなた」と「私」のあいだにあるこの「空間」は、あなたのもでも私のものでもないと同時に、あなたのものでも私のものでもある。わたしたちは、「身体という日常」から逸脱したこの「共有された空間=非日常」を祝福しあう。それが、「遊び」です。
「あそび」の「そ」は「空間=非日常」という意味です。
やまとことばにおける「結び目をつくる」ということもまた、この「共有された空間=非日常」を祝福してゆく行為にほかならない。