内田樹という迷惑・「抱きしめたい」という無意識

「半覚斎」氏は、
「思っている」と「思っていた」とは違う、
と言っておられた。
とても気になる言葉だ。
水彩絵具で、赤い色の上に赤い色を塗れば、下の赤い色は消えている。
しかし、別の色を塗り重ねた場合は、そうはならない。赤い色の上に黄色を塗れば、オレンジ色になり、青を塗れば紫になり、下の赤い色の痕跡は残る。
生きていれば楽しいことも悲しいこともあり、そうやって記憶が痕跡となって残ってゆく。
悲しいことがあったから、現在の楽しさが倍加する。悲しいことを知っているから、その何気ないことにも、ほろりとさせられてしまう。
しかし、変わりなくずっと続いている意識もある。
それはきっと、「私」だけの思いではない。
「私」だけの思いはいろいろに変化し、記憶となって残ってゆく。
そういうことではなく、人間なら誰だってそう「思っている」という意識がある。誰だってそう思っている意識だから、変わらないのだ。
赤い色を見て、赤い、と思う。晴れた空を見上げて、晴れている、と思う。誰も、雨が降っているとは思わない。そういう誰もが共有している意識のはたらきがある。
そういう変わらない意識のはたらきは、「思っていた」ことではあるが、絶えず現在の「思っている」意識に塗り消されて痕跡が消えてしまっている。
たとえ「思っていた」ことであっても、「思っている」ことによって、その痕跡が失われてしまっている。
だから「半覚斎」氏は、「思っていた」ことは私の「過去」ではなく「前世」である、という。
それは、たぶん、「無意識」の問題だ。
「私」だけの意識が「意識(精神)」で、誰もが思っている意識は「無意識」。
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「意識(精神)」は後天的なものだから、ひとりひとり生きてきた過程が違うように、それぞれ違う。
「あなた」を抱きしめていれば、誰だって「抱きしめている」と思う。しかしこれは、「無意識」ではない。社会習慣的な上部意識に過ぎない。
少なくとも無意識においては、抱きしめて「あなたの身体」を鮮やかに感じれば感じるほど、抱きしめているはずの「私の身体」に対する意識は薄れてゆき、ついには消えてしまって「あなたの身体」ばかりを感じている。だから「私の身体」に対する意識を失った「私」はもう、「あなたを抱きしめている」という実感を持つことができない。誰の中でもはたらいている無意識は、じつはこのかたちなのではないだろうか。
少なくとも無意識においては、そのときになってもなお「抱きしめている」とは思っていない。思っていないから、「抱きしめたい」という願いでなお抱きしめていることができる。
「抱きしめたい」と願わなければ、抱きしめることはできない。
われわれは、「抱きしめている」という自己意識の満足で抱きしめているのか。それとも、「抱きしめたい」と願う他者に向かう意識で抱きしめているのか。
「抱きしめている」という達成感は、それ以上心が動く契機がないのだから、それ以上抱きしめ続けることはできない。すぐに飽きてしまう。その達成感は、すでに「抱きしめたい」という願いを失ってしまっている。
われわれが物を食う行為は、ものの味わいを感じて追いかけることによって成り立っているのであって、「食っている」という満足=達成感によるのではない。
「うまい」と思えば思うほど、満足=達成感はない。満足=達成感を忘れている。だからもっと食おうとする。
満足=達成感は、もう食いたいという衝動がなくなって、「食った、食った」という満足=達成感としてやってくる。
満足=達成感で食うことなんかできない。
満足=達成感で「抱きしめたい」と思うことなんかできない。
そういう満足=達成感の幻想に浸されたとき、インポテンツになる。鬱病になる。
長いあいだ部長になりたいと願っていて、昇進したとたんに鬱病になる人がいる。受験競争に勝ち抜いた果てに五月病になる大学生もいる。
美女をホテルに連れ込んだとたん、にインポになっちまった男がいる。
いつもみずからの卑小さを嘆いて欲求不満の状態でいる人は、鬱病にならない。
つまり「抱きしめたい」と願い続けている人は。
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内田氏は、人は「自尊感情」と「達成感」で生きている、という。
これこそまさに、インポテンツ=鬱病の思想ではないか。
「抱きしめている」という満足=達成感を得るために「抱きしめたい」と願うのなら、抱きしめた瞬間、「抱きしめたい」という願いは消え失せてしまう。
「抱きしめたい」という願いなしに抱きしめていることはできない。
この社会で生きていれば、誰の中にも「自尊感情」や「達成感」を欲しがる気持ちはある。そういう気持ちを持たせようとする社会なのだから、それは、仕方のないことだ。
しかし誰の中でも、意識の根源的な部分では、「抱きしめたい」という願いがはたらき続けている。なぜなら、意識の根源的な部分では、抱きしめても「抱きしめている」という実感を得られないからだ。得られないというある「嘆き」が、人間であるかぎり、誰の中でも疼いているからだ。
だからわれわれは、「抱きしめている」ことができる。インポにならずにすんでいる。
自尊感情」や「達成感」を欲しがるのが「意識(精神)」のはたらきであるのなら、「抱きしめたい」と願い続けるのは、「無意識」のはたらきだ。
変わらない無意識がある。誰もが共有している無意識がある。変わらないから、誰もが共有しているといえるのだ。
変わらない無意識は、「はたらき続けてきた(=思ってきた)」のではない。それは、赤い色の上に赤い色を塗り重ねるように、絶えず現在の「思っている」意識によって消され続けている。
「私」の「抱きしめたい」という願いに過去はない。持続なんかしない。過去も未来もない「現在」が絶えず生起し続けているだけだ。
そうして誰もが「生きている」と思うのなら、その事実にも過去はない。過去は「前世」なのだ。
「私」に「生きてきた」痕跡などない。
「私」の「生きている」という事実は、「生きてきた」という痕跡を消去して顕在する。
「私」の無意識は、「死ぬ」ということを知らない。「生きてきた」という過去も知らない。
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ゆえに、フロイトの言う「無意識」など、現在における過去の「痕跡」としての「意識(精神)」であって、厳密な意味での「無意識」ではない。そして、無意識における「死の衝動」などというものもない。
あえて暴論を承知で言わせていただくなら、ユダヤ人に「無意識」はわからない。
仏教の説く「無意識」とは、そんなものではないはずだ。
人間の歴史は、ユダヤの律法によって、東洋と西洋に引き裂かれた。
「無意識」は、過去のトラウマがどうのというはたらきではない。
「認識」の問題なのだ。
赤い色を「赤い」と思う。晴れた空を見上げて「晴れている」と思う。そういう認識の根源ではたらい心の動きを「無意識」という。
赤と緑が同じであってもかまわないのに、誰もが「違う」と思う。それは、とても不思議なことだ。
われわれは、「現在」を過去の延長だとは思っていない。現在の目の前にものが見えているこの体験は、過去の体験とは違うと思っている。
意識は、一瞬一瞬生起する。「無意識」は、そのつど生まれたばかりの子供のような目で、この世界を見ている。その鮮やかに世界が出現する体験によって、われわれは生きている。
過去のトラウマを引きずった上部意識によるのではない。
「人間は本能が壊れた生き物である」といって悦に入っている人たちがいる。そんな分析は、ただの思考停止だ。人間だって生き物ではないか。生き物としての基本的な意識(無意識)のかたちというのはあるだろう。
人間が二本の足で立って歩き始めたことの最大のよろこびは、「抱きしめあう」ことができるようになったことにある。しかし世の研究者たちは、一向にそんなことを考えようとしない。すべては、「生き延びるための戦略」というパラダイムで回答が得られると思っている。ここにも思考停止が機能している。「生き延びる」ことが二の次の問題であったから、二本の足で立ち上がったのだ。生き物とは、そういう存在ではないのか。
生き延びるとかなんとか、そんなことを考える前にまず、「世界を認識する」という体験がある。それが、意識のはたらきの根源ではないのか。
あなたたちは、なぜこの平明な事実が信じられないのか。
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「無意識」は、過去も未来も知らない。
今ここの「実体」を認識するための心のはたらきの中心、無意識とは、たぶんそんなようなものではないかと思える。無意識においては、過去も未来も「実体」ではない。われわれはただ、ふだんの制度的な意識(観念)で、過去があたかも「実体」であるかのように思い込んで、懐かしがったり悔やんだりしている。
認識の根源においては、誰もが生まれたばかりの子供のような心でこの世界と向き合っている。その「心のかたち」が、たしかにある。
「あなた」を抱きしめたいと願っている「心のかたち」が、たしかにある。
われわれは、それを、信じることができるか。
神を発見する「心のかたち」が、たしかにある。
過去も未来も知らない生まれたばかりの子供のような心が、「神」を発見する。
すでに「神の子」であるユダヤ人は、その「心のかたち」まで遡行してゆくことはできない。彼らは、すでに「神の子」であるがゆえに、「神」を発見する契機を失っている。
「神の子」は、神の子ではない「人間」であることの条件をすでに失っている。
キリストが「神の子」になったのは、そういうかたちでみずから人類の「いけにえ」になったのであって、「神の子」としての栄光や尊厳や絶対性を獲得したのではない。キリストは、あわれないけにえの羊なのだ。
そしてそれによって人々は、「神の子」ではなく、神に気づく「人間」として生きることを得たのだ。
「神の子」になることが「意識=精神」による「労働」であるなら、「神」に気づくことは無意識による「遊び」だ。
この世界は、「遊び」の場だ。でも、遊びばかりだと、遊びそのものが労働になってしまう。この社会は、すでにそういう構造になってしまっている。だから、ひとつのスパイスとして、つらい労働に耐える時間もあっていいのかもしれない。
いずれにせよ、遊びがあってこその労働だろう。「労働」だけでこの生が完結できるわけではない。
なぜならわれわれは、すでに「神」を知ってしまったからだ。「神」は、遊びの場においてしか出会えない。
だから人は、職場を遊びの場にしようとする。どの程度できているかは人さまざまだし、遊びの場にすることによって、かえって労働を遊びのように勘違いしてしまうことも起きてくる。
とかく人の世は、ややこしい。
余計なことを書きすぎたかもしれない。結論を急ぐと、文章の足取りがもつれる。
とりあえず、もう少し「神」のことを考えてみたい。