内田樹という迷惑・ユダヤ教とキリスト教

神は人間を救済しない。
古代人は、神に気づいたから神を崇めたのであって、神に何かをしてもらったからではない。
現代の俗物は、神が何かをしてくれると勝手に思っていろ。
そこのところは、はっきりさせておきたい。
内田さん、あなたのことですよ。
そしてこれは、人と人の関係でも同じだ。
「私」は、「あなた」に何かをしてもらったから、いとしいと思うのではない。ただもう、「あなた」の存在にときめいているからだ。
キリストは、人々を救済したか。
たぶん、何もしていない。
聖書に書かれてあるような予言をしたり、奇跡を起こしたりする能力があったか。
たぶん、何もなかった。
そんな能力があるなら、迫害なんかされなかった。みんな、そういうおこぼれをほしがっているのだ。あるなら、さっそく権力からお呼びがかかる。そうしてローマ市民からもイスラエルユダヤ人からも、引っ張りだこになったことだろう。もともとキリスト自身はユダヤ教徒なのだから、これこそ本物のユダヤ教だと賞賛されたことだろう。
キリストは、ユダヤ教とは別の宗教をつくろうとしたのではない。ユダヤ教の新しい宗派として、独立して活動していただけだ。
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そのころイスラエルは、ローマ帝国の占領下にあり、その圧制にあえいでいた。
人々は、「メシア(救世主)」を待望していた。
待望していたのだから、予言や奇跡を次々に実現させていったら、もうユダヤ教の保守勢力の出る幕はなかったに違いない。
何にもしないけど、ただそのカリスマ性によって、どんどん支持を広げていっていただけなのだろう。キリストはなんにもしないけど、まわりの連中がこの人はメシアだとどんどん盛り上がっていった。
そこに、キリストの立場の危うさがあった。
そうして保守勢力の、キリストが反ローマの機運を煽動している、という訴えにより、あっさり処刑された。
キリストの死後、教団は、存続の危機に立たされた。
保守勢力の猛烈な殲滅作戦にさらされた。
しかしそこで、多くの殉教者を出しながら、死にもの狂いでがんばった。
そうして、さまざまなキリスト伝説を仕立て上げ、徹底的にユダヤ教徒を改宗させていった。それは、キリストの弔い合戦だった。初期のキリスト教団は、自分たちこそ正当なユダヤ教であると主張して、もともとのユダヤ教徒を改宗させることに専念していっただけである。
ユダヤ人以外が本格的にキリスト教徒になっていったのはキリストの死から250年以上たった4世紀以降のことだった。
その執拗な怨念とキリストへの熱い愛が、教団を生き延びさせた。
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キリストのカリスマ性は、予言や奇跡の能力にあったのではない。
この人に見つめられたらもう一生ついていこうという気になってしまう、というような、どうしようもなく人をひきつけてやまない何かがあったのだろう。
聖書でいう霊能力などは、死後につくられた伝説に過ぎない。
霊能力だけでメシアとで崇められたのなら、残された者たちにあれほどのがんばりはもたらさなかった。
彼らは、キリストの霊を信じたのであって、キリストに霊があったのではない。キリストの霊が彼らにがんばらせたのではなく、彼らがキリストの霊を信じてがんばったのだ。
彼らは、キリストから何も恩恵をこうむっていない。ひたすらキリストが好きだった。キリストが彼らに与えたのは、キリストを愛するよろこびだけだった。
初期のキリスト教は、ユダヤ教となんら変わりはなかった。
ただ、キリストを「メシア」として崇めるか否かの違いがあっただけだ。
メシアとして崇められたから、キリストは処刑された。
キリストがメシアであったのではなく、まわりがキリストをメシアだと思ったのだ。
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ユダヤ教キリスト教の違いはどこにあるのか。
本格的にユダヤ教と一線を画してスタートしたのは、おそらく新約聖書がつくられた3世紀半ばからのことだろうが、前者は神の「律法」に従い、後者は、キリストを愛する情熱を生きる(だから、十字架がシンボルになったのだろう)。
前者は、信者の誰もが神の子であるが、後者はキリストだけが神の子である。
神の子として生きるか、神の子を愛する人間として生きるか。
キリスト教は、ユダヤ教から離れて世界宗教としての普遍性をそなえていった……とよく言われるが、その普遍性とは、神や世界の解釈がどうのという以前に、どうしようもなく人を好きになってしまう心の動きをもたらしてくれるものとしてあったのかもしれない。
神や世界について「説得」する能力なら、ユダヤ人のほうがはるかに優れている。ただ、人を好きになったり殺したりするダイナミズムはキリスト教徒のほうにあった、というだけのことではないだろうか。
前者は、離れすぎている人と人の関係をくっつけてしまう。後者は、すでにくっつきあっている関係を止揚してゆく。
しかし、くっつきも離れすぎもしないちょうどいい関係というのがある。おそらく人間性の基礎は、そこにある。したがって、どちらもそれなりに西洋的ないかがわしさがあると思えるのだけれど、その問題は、次回に考えてみたい。